今日未明、スペインから帰ってきました。

 2週間かけてバスで移動したルートがこちら。。。

唯一の移動手段であるバスが思わぬ煙を上げて、高速道路上で立ち往生することもあった


 決して快適とは言えないバス移動を計3700km超も続けていました笑。

 東京・大阪間が約500km、日本の国土の全長が約3000kmなので、いかに半端でない距離を動き続けていたかが推測できるかと思います。東京から直線距離で3700km移動すると、ベトナムのハノイあたりまで行けるようです。まあ伊能忠敬が約40000km歩き続けて日本地図を作ったのに比べると大したことないですね笑。

 とはいえ、日によっては24時間ものあいだ移動を続けていたこともあり、なかなかハードでした。

 

 毎年の恒例行事となりつつあるスペインツアーで僕が楽しみにしていたのは、異文化との接触です。

紫がいわゆるスペイン語、オレンジはカタルーニャ語、
濃青はガリシア語、緑はバスク語。(wikiより転載)

 スペインはなにもスペイン語だけが使われている国ではありません。上の地図をご覧になればわかりますが、ガリシア語やカタルーニャ語、そしてバスク語などさまざまな言語文化が集まった地域として知られています。上の地図に載ってない言語もまだまだあり、今回の一見ランダムなバス移動は、少なくとも4つ以上の異なる公用語が使われている地方を跨ぐ結果となり、かえってスペインの言語事情を垣間見させてくれたのでした。
 中でもバスク語は他のいかなる言語からも孤立している言語として有名です。同じく異彩を放っているジョージア(グルジア)語と同語族なのではないか、という説さえあるほどで、こちらもきわだって孤立している日本語の話者である自分自身を鑑みると、なんとも奇妙な立ち位置にいるものだなあと感心してしまったのでした。

 ツアー中は『火の鳥』と『くるみ割り人形』の上演を繰り返し、くるみの時はコンクリートのような固い床でひたすら中国の踊りを踊り続けていました。こうなってくると、もう本番は気合いで乗り切るしかありません笑。やっとこさトビリシに帰ってこられたので、調子を元に戻して年末の『ドンキ』に臨みたいと思っています。
12月末の公演『ドン・キホーテ』の広告

 移動時間の多いツアーだったので、映画鑑賞や読書も捗りました。ここでいくつか心に残ったものをご紹介します。


  • 『The man who knew infinity』(映画)
    『The man who knew infinity』(wikiより転載)

 ・・・奇才として知られた20世紀のインド人数学者ラマヌジャンの半生を描いた作品です。友人に勧められ、飛行機で観ました。イギリスでの異文化の生活に呑まれながら人知れず葛藤するラマヌジャンを見ていると、高校までの学業に追われる日々がフラッシュバックしたり、(僭越ながら)自分自身の海外生活そのものを目の当たりにする気がしました。もっとも自分は遥かに恵まれた生活をさせてもらってますが、海外生活の苦労――これは年を追うほどにむしろ蓄積していくものなのかな、とさえ思いました。

  • 三島由紀夫『ラディゲの死』(新潮文庫)

 ・・・久しぶりに日本語の小説を読みました。後半に収録されている『ラディゲの死』と『施餓鬼船』が特に印象的でした。ツアーの前半は常に友人たちに囲まれながらわいわいしていて、何か物事を考える必要には追われなかったのですが、中2日の休日を迎えた途端、自分の中の本音やら不満やらに耳を傾けざるをえなくなり、静けさほど恐ろしい喧噪はないな、と気味悪がっていた矢先に読んだ作品集です笑。はっきり言って、精神に堪えましたw。


  • Allan Wats "The book; on the taboo against knowing who you are"

 ・・・東洋思想に凝っているオランダ人の友人に勧められて、いま読んでいます。アラン・ワッツは東洋思想を西洋に紹介した人物として著名ですが、むしろ日本人のみんなにこそ読んでもらいたい本です。それも日本語訳ではなく、英語で読んでもらいたいところです。まだ読み終わってはいませんが、「本当の自分と向き合う」ために書き連ねられた言葉の数々がグサリグサリと心に突き刺さり、だいぶツラいです笑。

 そのほかに、スピノザの『エチカ』などに手を出していますが、こちらは読み終えられる自信があまりありません笑(なぜかスペイン語で読んでいる)。

 それともう1つ宣伝を。『マージナリア特別号』の通販サイトができました。特設ウェブサイトにもリンクを貼りましたが、こちらからも紹介しておきます。まだお手元にないという方は、ぜひこの機会に1冊買っていただけると嬉しいです。
 あとは『マージナリア第7号』の編集作業を年末までに片づけて、心機一転、2017年を迎えようと思います。



 みなさんご無沙汰しています。今年のトビリシはずいぶん冷え込んでいますが、日本はいかがでしょうか。トビリシは比較的温暖な地域として知られているものの、ここ数日は氷点下になることも少なくありません。

 バレエ団はここまで、『ジゼル』や『白鳥の湖』、『ゴルダ』など先シーズン同様のレパートリーに加え、子供向けのバレエなどを上演しています。夜の10時過ぎまでリハーサルの終わらない日もあり、なかなかタフなスケジュールが続いています。

 いまトビリシは夜中の0時過ぎなのですが、数時間後にはスペインツアーに旅立ちます。毎年恒例の行事で、2週間ほど北スペインを中心に『くるみ割り人形』などを上演する予定です。

***

さて、休日などを利用して長らく編集作業に携わってきたマージナリアですが、今年限りでしばらく身を引くことにしました。

 理由は今シーズン最初のブログでほのめかした通りです。

今シーズンは「自分に投資する1年」になりそうです。傍から見るとややアウトプットの少ない1年になってしまうかもしれませんが、将来的に今よりもより発信力の強いアウトプットを生み出せるような環境づくりを徐々に始めよう、と思っています。事実、もうすでに始めています。まだ公に発表できるものは少ないですが、まずはダンサーとしてのキャリアをしっかりと見据えたうえで、マージナリアのような活動も活性化できればと思います。
 遅かれ早かれマージナリアから身を引くことは昨年の時点でほぼ決めていました。日本に住む寄稿者や運営委員同士の連絡を仲介する難しさもさながら、読者や寄稿者のみなさんの声を直接聞くことができないこと、トビリシの自宅に印刷機がないこと(笑)、日本の大学や大学院に通う友人たちとは(長らく異なる生活環境にいたこともあって)雑誌の方向性やお互いの価値観を共有しにくくなってきたこと、そういった現状を踏まえての決断です。

 とはいえ、この秋~冬には2つの異なる雑誌がマージナリアから出版されたことを誇りに思います。1つは10月に完成した『マージナリア特別号』。少数先鋭で「わたしのいる歴史」というテーマに取り組み、全ページオールカラーで印刷されています。まだ現物が手元にないのですが、できるだけ多くのみなさんに読んでいただければ嬉しいです。こちらの特設ウェブサイトも覗いてみてください。
 もう1つは今月末に出版する『マージナリア第7号』です。「遊び」をテーマにしており、どの企画もかなりぶっとんでいます(笑)。編集作業はほぼ99%終わっていて、現在は校正の最終段階。出来上がりが今から楽しみです。


 そんなこんなでマージナリアやら公演やらこなしていたのですが、数時間前から風邪の兆候が・・・wマージナリアを続けるのはちょっときついな~と最近より強く思うようになった、もう1つの原因がこれです。去年あたりまでは時間にも余裕があったのですが、ここ最近はそうもいかず、残り10年ほどのダンサー生活でもっとも大切なこの時期を、自分とは別の世界に属する印刷物製作の連絡業務や編集作業に費やしていては後悔するな、と。運営委員の友人たちとともに7年ほど続けてきた活動とはいえ、5年以上もの間を文字通り「別世界」で過ごしてしまうと、そう思わざるをえなくなっても仕方ないのかなと感じています笑。


 ツアー中は変則的な生活を強いられるので体のコンディションには気を付けたいと思っています。精神的にリフレッシュできるチャンスでもあるので、しばらくはIndesignから離れて、スペイン生活を楽しむつもりです。


 今日、トビリシでは雪が降りました。この時期のトビリシは曇りがちで、太陽の出ない日などは極端に冷え込みます。今日にいたっては最高気温が3℃と、あたかもロシアに住んでいるような寒さです(あくまでこの時期のロシア、ですが)。
2月のモスクワ

 アムステルダムに住んでいたころもつねに曇天続きでしたが、雲の高さや風の強さはまるで違ったように思われます。アムステルダムでは低空を雲が覆い、強風が町中を煽っており、町が平坦に圧縮されているような感じでした。今日のような日のトビリシは、むしろ2月に訪れたモスクワを思い出させます。
 私がバレエ団と一緒にモスクワ入りした際の気温は0℃前後で、2月のロシアにしてはだいぶ穏やかな天気でした。2、3日は大雪に見舞われましたが、それでも-10℃を下回るかどうか、という程度だったように記憶しています。
 この遠征はバレエ団の芸術監督ニーナ・アナニアシヴィリの恩師ライサ・ストルチコワを記念したガラ公演が目的で、アレクセイ・ラトマンスキーの振付作品『レア』等を上演しました。『レア』は作曲家レナード・バーンスタインのバレエ音楽『ディブック』を用いた作品で、ユダヤ神秘主義としてよく第一に挙げられる「カバラ」などが踊り手として登場します。私が踊ったのもこのカバラの役で、端的に言うと「この世界を形成する文字の役」でした。音楽的にも気に入っている作品なので、作品については後日あらためて取り上げるつもりです。(内容について少し踏み込んで考察したいので、ゲルショム・ショーレムの『カバラとその象徴的表現』を読んでから書こうと思っています。もっとも、肝心の本は日本の実家に置いてあるのですが・・・)
ラトマンスキーの『レア』

 モスクワ滞在中は、ボリショイ劇場でボリショイバレエ団のスターとともに踊り、ボリショイ劇場管弦楽団の演奏でバレエを踊るという事態に言葉を失い、言いようもない感慨に襲われたのをよく覚えています。プロになってまもなく怪我に見舞われ、思うように動けなかった2年間を振り返ってこその感慨だったのだと思います。もっとも、傍目には隴西の李徴よろしく、みじめな回想かもしれませんが・・・
 ジョージアのバレエ団とともに行ったからこそ、モスクワの威容を実感できたのかもしれません。ここトビリシのバレエ団には、ソビエトを肌身に感じてきた教師陣が大勢います。モスクワとの邂逅は、そういったソビエト時代の片鱗を嗅ぎとりながら踊る毎日だっただからこそ、普段見逃しがちなバレエ本来の文脈をあらわにする痛恨事のように思えたのかもしれません。
 私はこの一件でようやくロシアという大きな存在と向かい合えたことを幸運に思います。これまでのジョージア生活における一番の思い出が皮肉にもロシア訪問というわけですが、そんなこともあって、今日のような寒々とした日には非情なまでに冷やかなロシア音楽を聴きたくなります。ロジェストヴェンスキーの指揮する『白鳥の湖』を流しつつ、今後の身の上について思索を巡らすそんな夜です。


▶参考
カバラ(ウィキペディア日本語版)
ディブックとは(日本イスラエル親善協会)
バレエ『ディブック』(ウィキペディア英語版)
バレエ音楽『ディブック』(Youtube)




みなさんお久しぶりです。

日本はいまもジメジメとした暑さに見舞われているのでしょうか。

8月末にトビリシへ帰ってきて以来、ジョージアではすでに暑さがやわらいできています。夏休みをひたすら膝の療養にあてたため、2か月の間バレエクラスはほとんど受けていませんでしたが、2年越しでバレエマスターのアナトリ・クチェルクがバレエ団に帰ってきたので、今は彼のサディスティックなレッスンに必死で喰らいついています。
膝のほうはよくなりましたが、バレエはまだまだ思うようにいかず、四苦八苦の毎日です。

しばらくマージナリアの独断講評のほうもあまり更新できていませんが、とりあえず10月までには特別号が、そして11月ごろには第7号のほうが完成する予定です。運営委員として働いてくれている友人のみんなも大学や大学院、あるいは社会人としての仕事の傍ら協力し合って制作に取り組んでくれているので、進捗は日々わずかですが、確実に歩を歩めることができています。

この夏休みはひたすら旅と今後の見通しを立てることの2つに忙殺されました。長崎のあとシンガポールにまで足を運んだり、その合間を縫ってイベント「しゃべる日」やマージナリア編集会議を開催したり、とてんやわんやの毎日だったので、かえってジョージアにいるほうがゆったりと落ち着いた生活を送れています笑。

今シーズンは「自分に投資する1年」になりそうです。傍から見るとややアウトプットの少ない1年になってしまうかもしれませんが、将来的に今よりもより発信力の強いアウトプットを生み出せるような環境づくりを徐々に始めよう、と思っています。事実、もうすでに始めています。まだ公に発表できるものは少ないですが、まずはダンサーとしてのキャリアをしっかりと見据えたうえで、マージナリアのような活動も活性化できればと思います。

さて、今シーズン最初の公演は今月末のジゼル。劇場がリニューアルオープンして以来、初めてのジゼルなので、このバレエをオーケストラと合わせるのも今回が初めてです。まだ自分が何を踊るのかよくわかっていませんが笑、プロとして遜色のない舞台を作れるよう日々レッスンに励むつもりです。それではまた。。






 長崎で遊んできました。















 この旅行記は、マージナリア第7号に掲載するつもりです。


 ちなみに、マージナリア第7号のテーマは、「遊ぶ」。


 乞うご期待ください。


わずか1公演を残すばかりとなった今シーズンのバレエ団。先々週に『ゴルダ』と『火の鳥』の公演を終えて、この月曜にはトビリシで開かれているOSCE(欧州安全保障機構)の年次総会のために、グルジア音楽を用いたユーリ・ポソホフの作品『サガロベリ』抜粋を上演しました。

これはバレエ団だけでなく、オペラ歌手、ピアニスト、チェリストらも参加した公演で、なんといってもグルジア舞踊団スーキシヴィリSukhishviliを舞台袖から見られたのが一番の収穫でした。

▲スーキシヴィリによるツドの踊り


スーキシヴィリは英語ではGeorgian National Balletとなっており、対するバレエ団はState Ballet of Georgia。なのにバレエ団の日本公演ではこれまで「グルジア国立バレエ団(ジョージア国立バレエ団)」という名称を使ってきているので、よくこの2つは混同されますが、全くの別物です。いわばGeorgian National Balletの「national」は「民族(舞踊)」のほうの意味で、僕たちは「国立(オペラ・バレエ劇場)」。よくジョージアの国立バレエ団はあんなクレイジーな民族舞踊もやるのか!なんて言われますが、そちらは専門外です^^;

そんなバレエ団ですが、グルジア舞踊との縁が深い作品もいくつかあります。上記の『サガロベリ』然り、今年復刻上演されたヴァフタング・チャブキアーニの『ゴルダ』もその1つです。これまでに何度も書いている通り、『ゴルダ』については新論説集『マージナリア』第6号のほうで詳しく紹介しています。

その本文中の1箇所をこの場で訂正させてください!僕はワーグナーの著書に『総合芸術論』というものがあるかのように書いていましたが、これは記憶違いで、総合芸術論は彼の論文『未来の芸術作品』などに散見される説です。高校時代に読んだ本だったので、ちょっとあやふやでした。。。


延びに延びたマージナリアの講評へ移る前に、もう1つ宣伝を。たびたびFacebookでシェアなどしていますが、この夏、福岡にて「福岡国際バレエフェスティバル」というイベントがあります。こちらもマージナリアに広告を載せましたが、この一大イベントを主催しているのは一般の企業などではなく、僕と同じジョージア国立バレエ団の同僚。陰ながら僕も写真や動画の編集、翻訳等でお手伝いをさせていただいてます。何から何まですべてダンサーの手で作り上げられており、しかも国内外の著名バレエカンパニーを巻き込む前代未聞の規模になっていますので、九州にお住まいの方、また九州に知り合いがいらっしゃるという方は、ぜひ本公演を周知していただけると幸いです。Facebookはもちろん、TwitterやInstagramもありますので、お気軽にフォローしてみてください!

▲福岡国際バレエフェスティバルの紹介動画

*   *   *

さて、それではマージナリア第6号の講評もちゃちゃっといきます笑。今回はp.22の「短評」とp.85の「《Tsunami A.D.365》への評」。どちらも音楽について扱った文章です。短評全体についてはすでに冊子内で評を書いたので、今回はTsunamiの文章と合わせ、個々の記事についてあえて触れなかったことなど指摘してみます。

今回の短評のお題は、こうでした。

  • ある楽曲を聴いて、それを文章中で表現してください。ただし文章の中で筆者および想定される読者の聴覚に依存する表現を用いてはいけません。

このお題から読みとれる問題はおもに2つです。

  1. 音楽を文章で「表現」するとは?
  2. 聴覚に依存する表現なしで、どうやって音楽を表現するか?

結論から言うと、答えは無数に存在します。正解はありません。このお題だと、楽譜の解説をすることはできないわけですから、提題者の大川内くんも言っている通り、「楽曲を表現するときに二番目、三番目に主要な方向は何なのか(★)」ということが重要になってきます。

では実際に参加者は何を重要だと思ったのでしょうか?ずばり★に着目することで、各々の文章の見え方は瞭然変わってきます。
シューマンのヴァイオリンソナタについて、石丸さんはこう記しています。

  • 曲の終わりのA音に辿り着いた時、私の頭によぎるのは、ただ「生きててよかった」という言葉である。誰のものかもわからない言葉。別に何か確かなものを得られるわけではない。それでも、これを聴けて良かった、そう思ってしまう。

音楽を聴くという体験そのものに重点を置いているこの文章は、「音楽を文章で表現する」という問題については明確な態度を表明していないものの、音楽について一番重要なことを見失ってはいません。聴覚に依存する表現を使うにせよ、使わないにせよ、音楽を聴いたときの感動というのは、ずばりブレないんです。

「うわーーーーーっいい曲だなあ!」という思いを表現する最良の方法は、素直に書くことです。石丸さんの文章は純粋に「音楽を文章で表現」しているわけではありませんが、それでもなお、僕はこの素直さという点で、一番秀逸な文章だったなと思いました。

次に東川さんの文章を見てみます。思うに、東川さん、田中くん、そして村瀬さんの文章は、どこか一部を抜き出して引用してもあまり意味がありません。それというのも、3人は各々の方法で音楽の文章化という問題について正面から取り組んでおり、いわばその文章化の方法自体に彼らの思惑――音楽が文章になったとき、もっとも重要な要素は何だと思うか――が浮き彫りになっているからです。

多くの読者の方は、まだ東川さんが扱った音源をお聴きになっていないかと思います。まずはそちらを聴いてみてください。

https://soundcloud.com/arca1000000/uenqifjr3yua

どうでしょうか。じつはこのArca『&&&&&』という作品、約25分の電子音楽なんですね。室井くんの文章もそうですが、電子音楽を扱った文章は、厳密には「音楽」を扱っているとは言えません。「音楽」はものすごく古典的な言葉です。現代アートを必ずしも「芸術」と呼べないのと同じで、こうした現代の「音」作品を聴く態度は「音楽」の場合とはあまりにも違っています。本当は同じ土俵でベートーヴェンやシューマンと比べることはできないんです。いまここで深入りするのは避けますが、この「音と聴く人の関係史」にはバックミュージックという概念やウォークマン/iPod等の登場が複雑に絡んでいます。

東川さんの文章は、この音作品をいわば映画のバックミュージックのように捉えて、そこでいま流れている映像のほうを描写したようなもの、と言ってもあながち間違いではないでしょう。事実、こうした現代のサウンド作品は、古典的な音楽と比べると、「解釈の多様性」、あるいは、「視覚性」といったものに顕著な歩み寄りが見られます。僕はつねづね「音楽は本来的に舞踊性を擁したものである」と思っているのですが、そうした音楽のエッセンスから乖離していったところに現代のサウンド作品の面白みがあることも多いので、そういった面が本文中で「スマートフォン」や「アイドルのオフショット」といった端的な言葉によく表れていると思います。「音楽を表現する」という点に従順であろうとするならば、唯一惜しかったのは、本文の最後で「これはそんな音楽だ。」と本人が顔を出してしまうところでしょうが、それもまた、このサウンドスケープが反映する現代社会というガラスの破片だと言えるのかもしれません。この音作品と近接した関係にある異次元のサウンドスケープ、すなわち音風景こそが、東川さんにとっての★だったと言えるでしょう。

次に田中くんの文章です。こちらもあまり聴いたことがない方が多いかと思うので、Youtubeの音源を載せておきますね。


おそらく武満徹の『マージナリア』という、本雑誌マージナリアと同名の音楽をすでに知っていた田中くんは、この作品を選ぶことによって、マージナリアという雑誌のタイトルに対しても想像力のリーチをかけたかったのだろうと思います。実際、マージナリアという言葉は日本語ではありませんから、ある程度の効果はあったことでしょう。

マージナリアmarginaliaとは、傍注、すなわち本の余白にある書き込みのことです。その余白性に着目して、田中君の文章はジョン・ケージの実験詩さながらの形式を借りています。彼の文章はその内容よりも形式において音楽を表現しており、そういう技法をあえて選択していることが武満徹の楽曲の表現であることの証だといえるでしょう。時代背景が濃く反映された実験スタイルでもあるので、それを前面に押し出して文章にするのであれば、当時の前衛音楽のどれをとってもよかったんじゃないか、という思いもしないではありませんが笑、文章で表現しやすい音楽をうまく選択したところに、田中くんの飲み込みの早さが表れています。★についての勘所がもっとも鋭かった文章だったとも言えそうです。

次の室井くんの文章は、作曲者による解説といった向きがあります(どうも実際そうらしい)。彼の「音楽」もまた、電子音楽です。

https://soundcloud.com/y_m_u/zicyyjgtcomg

作曲者本人による解説となると、それまでの作品制作の傾向なども調べずに不用意な評を加えることは憚られるのですが、この文章はどこか音作品と平行線を辿っているように感じられます。つまり音作品を赤の他人が表現しているときと異なり、文章は音作品との接点を持たないものの、同じ方向性だけはどこまでも維持している、そんな印象を受けました。この文章の持つ音作品との平行性が、ある意味、室井くんにとっての★であり、そのことをあまり本人は意識していないというところが、かえってこの文章が『いつまでもお元気で』という音作品の純朴な表現であることを暗示しているのでしょう。

最後に村瀬さんの文章を見てみます。ベートーヴェンのヴァイオリンソナタについて書いたこの文章は、おそらく今回の企画中、もっとも音楽の「翻訳」に近いものだったといえます。いわばヴァイオリンソナタについて書いたのではなく、ヴァイオリンソナタを書いた、というわけです。

とはいえ、聴覚に依存する表現を使うことができない以上、それは個々の音の連なりが想起させる視覚的なイメージを書きつづっていくことになります。散文としてではなく、あるイメージを淡々と羅列していくこの文章のスタイルは、音楽の翻訳を書こうとした村瀬さん本人の語り口をできるだけ排除した結果であり、同時に「音楽を表現する」というお題を「音楽を翻訳する」という作業に完全に置き換えてしまったことを示す点で、長所とも短所とも言えるでしょう。

村瀬さんは翻訳者顔負けの職人的徹底をもってして、音楽を言葉に置き換えています。ですが、文章をどう翻訳するかということにしたって、翻訳者の感性がそこに反映されることは避けられません。たとえばアンデルセンの童話を森鴎外の翻訳で読むときは、どうしたって森鴎外の選んだ言葉を読むことになるわけで、アンデルセンを読んでるということには必ずしもなりません。村瀬さんの文章については、そのあたりの線引きをどう決着させるか、というところについて、意図的な踏み込みがあってもよかったのかな、という気がしています。歌舞伎の黒子のように装って、文章の裏から言葉を操っていくのも一興ですが、表現者本人の本音が聞かれないのもまた、表現者の人間らしさが窺われない点で残念だな、と思います。ダンサーである僕からすれば、完璧に振り付けられた踊りのなかにダンサーの個性が垣間見えないようでは、それは誰が踊っても一緒なんじゃないか、というわけです。このあたり東川さんの文章と比較すると、技巧と本音のバランスをとることが非常に困難だとわかります。

なお★について言うならば、村瀬さんはもっとも広範囲にわたって音楽を全体的に表現されています。ですから、良くも悪くも完成度の高い模写といえるでしょう。


以上、長々と思うところを書いてきたわけですが、終わりに《TSUNAMI~》についても附言しておきましょう。この文章が短評の文章と徹底的に異なるのは、実際の音楽を聴いていない評である、という点です。思うに短評の文章はほとんどが聴き手としての立場から書かれたものであり、対する《TSUNAMI~》の評は、譜を読む、という能力を前提としているため、書くことのできる範疇が大いに狭まります。事実、短評の提題者であった大川内くんは素直にその評の限界を認めています。したがって、実はこの《TSUNAMI~》の文章と短評の書き方を比べることによってこそ、「音楽を表現する」という問題の本質がよく見えてくるのではないかな、と思います。

マージナリアの短評は、毎回参加者同士の文章を比較したときにその面白さが際立つ企画です。初期の短評「お~いでてこい」などからすると趣旨にずれはありますが、依然として企画内部の相乗効果が際立っているという点は変わらないかと思います。そこでマージナリアのほかの記事との関連性が見えてくれば、より味わい深く読めるものになるだろうと思い、《TSUNAMI~》との比較という1つの読み解き方をご紹介しました。短評参加者が書いているほかの文章を索引からたどるのも一手ですし、第5号までの短評と併せて読みこむのも面白いかと思います。


今回のブログはこのへんで終わりにしておきましょう。『ゴルダ』の文章において、僕は僕なりにこの「音楽を表現する」という問題を念頭に置いていたので、そのあたりの消息もご紹介したいのですが、この話は来たる7/31(日)の第6号合評会にて披露しようかなと思います。みなさんぜひ顔出してくださいね!^^



みなさんこんにちは。トビリシでは最高気温30度を超える日々を送っていますが、いかがお過ごしでしょうか。
先週、ジョージア国立バレエ団は『愛のために』と題した特別な舞台を上演していました。これはミラノ・スカラ座などで活躍するジョージア出身のメゾソプラノ、ニーノ・スルグラーゼさんを中心とした企画で、新作バレエ『ラ・ストラーダ』を前半に上演し、後半はスルグラーゼさんを迎えてプーランクのオペラ『人間の声』を披露するという異色のプログラムによるものでした。

『ラ・ストラーダ』は映画監督フェデリコ・フェリーニの同名映画『道(la strada)』(1954)をもとにした、振付家ジャンルカ・スキャヴォーネの新作バレエです。この映画に音楽を提供したニーノ・ロータはバレエ用組曲も作曲しており、それらを使用した既存の同名バレエを新たに改訂した作品が、今回の新たな『ラ・ストラーダ』でした。
主役のジェルソミーナを演じたのはバレエ団の芸術監督でもあるニーナ・アナニアシヴィリさん。さらには、映画『道』を制作したカルロ・ポンティSr.の御子息カルロ・ポンティJr.さんを指揮者に、イタリアで著名な演出家マルコ・ガンディーニさんを舞台演出に迎え、初日にはポンティSr.の奥さんかつ大女優として名の知られるソフィア・ローレンさんが舞台を鑑賞されました。なんでも旧ソ連圏ではイタリア映画しか鑑賞できなかったとかで、ソフィア・ローレンさんの認知度は周辺国にまして高いのだそうです。そんなわけでリハーサルも時間をかけて入念に行われました。

まあもっとも、僕はソフィア・ローレンさんのこと知らなかったんですけど・・・笑

▲『愛のために』公演予告映像


一方のオペラ『人間の声』はジャン・コクトーの同名戯曲を原作としています。30分あまりほぼ動きのないセットでの独唱だったので最後のカーテンコールを待つダンサーたちには不評でしたが、プーランクのオペラを聴く機会は滅多にないので、僕は個人的には楽しみました笑。

そんなこんなで7連勤を終えたバレエ団でしたが、残念なニュースもありました。かつてヴァフタング・チャブキアーニと『ローレンシア』などを踊った名ダンサー、ヴェラ・ツィグナーゼさんが先週金曜日逝去されました。享年91歳でした。僕たちダンサーにとっては、昨年トビリシ市内で行われたツィグナーゼさんの生誕90周年記念ガラ公演が記憶に新しく、とりわけジョージア人のダンサーたちには衝撃的な知らせだったろうなと思います。僕がマージナリアに書いた『ゴルダ』初演で主役ジャヴァラを踊られたのもツィグナーゼさんでした。ツィグナーゼさんはオペラ劇場のそばに埋葬されるということです。御冥福をお祈りします。

▲ヴェラ・ツィグナーゼの『ローレンシア』(1940s?)

▲ツィグナーゼ生誕90周年記念ガラ(一部)

今週バレエ団は、奇しくもその『ゴルダ』と『火の鳥』を上演します。ツィグナーゼさんのためにダンサーたちも一段と張り切ってくれることだろうと思います(僕もがんばります)。

さて、マージナリアの講評がしばらく滞っていますが、こちらは来週、今週の『ゴルダ』公演と自分の書いた『ゴルダ』に言及しながら、短評企画と『Tsunami A.D.365』の評を扱おうと思っています。お楽しみに。




おととい、今シーズン最後の『白鳥の湖』が終わりました。今回も1日だけロットバルトに挑戦する機会をいただいたので、下手なりにベストを尽くしたつもりです。なんといってもスターウォーズ好きにはたまらないダークサイドの化身ですからね~笑。ファジェーチェフ版『白鳥の湖』ではロットバルトもなかなか踊らせてもらえるので、色々と勉強になりました。

バレエ団では翌日から、来週のプレミア作品『La Strada』にむけてのリハーサルが始まっています。『La Strada』は巨匠フェデリコ・フェリーニの同名映画をもとにしたバレエで、今回のバージョンは世界初演。まだ制作の途上なので全体像は見えていませんが、オペラとの共同制作でもある来週の公演は、きっと今シーズンでもっとも興味深いプログラムになるのではないだろうかと期待しています。

*  *  *

さて、前回のブログではマージナリア第6号の問題点などを自己反省的に挙げつらねましたが、今回は「テーマ論説」を読んでみたいと思います。

第6号のテーマはずばり「恋愛」でした。マージナリアにかつて一度も見られなかった要素の1つです笑。

マージナリアが恋愛を扱ってこなかった理由は簡単です。もともとのメンバーが男子校出身で需要も供給もなかった笑というのと、「そもそも書いて論じるようなことじゃないよなー」というのが一般認識だからです。

それでもテーマを設定した沖田さんは「恋愛を語ってくれ」と叫びます。


  • そんなわけで、僕が期待するのは、恋愛経験主義者たちをまとめて串刺しにし、返す刀で恋愛解体論者たちの不毛な議論もバッサリ切り捨て、なおかつ僕の目の前の中学生カップルに「つまらない」と投げ捨てられもしないような文章だ。シンプルにしよう。体験・分析・社会のどれか1 つに偏らないでほしい。幻想を構築しながら解体し、解体しながら現実社会に触れ、社会を分析しつつ恋愛の固有性、一回性を捨てないで欲しい。

経験主義もなんも、恋愛しないで恋愛なんて語れるのかよ、という困惑を片手に、まじめぶって文章を書くか開き直ってしまおうか、ついつい考え込んでしまう、そんな企画。一言で言うなら、「なんてこったい」というページです。

そういうわけで僕は、みなさんがどういった面構えで文章を書くのかな、というのが気になっていました。もっとたくさんの方に書いてほしかったなあ、というのが正直な感想ですが、みなさんの書く姿勢、そこにどうしても恋愛経験値のようなものが反映されてしまうあたり、誰が読んでも面白いに違いありません。それはちょうど宮田佳歩さんが書いているように、恋バナをしたがる人のサガなのだろうと思います。
筆者それぞれの面構えを見てみましょう。まずは板尾さん。

  • 恋に焦がれて何も手につかなくなっては仕方がない。かといって恋をしてしまった以上、それ以前に戻ることはできない。とすれば、恋に焦がれたまま万事に手を付け、恋を肯定して生きていかねばならない。かくして、盲目的な恋は「その人のために全てを捧げて生きる」という、人生の究極的な動機付けとなり、そのような恋をすることは、その中での活動を通じて直接的・間接的に人生の喜びを得るための方法の一つになるだろう。

この文章を読んだルームメイトのK君は、「年配の人が書いてるみたいやん」との感想を漏らしてくれました。なるほどたしかに、恋愛を語る上では、それを過去の記憶の延長線上に書くのか、いま起きていることとして書くのか、未来に起こることとして夢見心地で書くのかで、書き手の見え方が変わってきそうです。話が個人の経験から離れれば離れるほど時間軸においても遠い話のように感じるのが、恋愛を読むうえで面白いところです。逆にいえば、いま起きていることを語ろうとすれば、それは一般化して話すことが難しい、というわけですね。
そんなわけで、この文章はずばり愛とか幸福という概念に対して敬虔的なあまり、沖田さんの目の前の中学生カップルに「つまらない」と投げ捨てられはしないか、というのが僕の懸念です。その純直な論調は恋愛できる時間の只中にいることの裏っ返しだとも思うんですが、文体の仮面を脱ぎ棄てて、終わる恋についても書いてほしいな、と思います。詩人の茨木のり子さんだったか、「恋と愛とは似て非なるものです」というようなことを書かれていたと記憶していますが、「幸せと幸福」などについても同じようなことが言えるはずです。板尾さんには素直に知っているだけのことを書き出してほしいな、と感じました。それが沖田さんの言う、「体験・分析・社会のどれか1 つに偏らない」文章に繋がるんじゃないかと思います。

次は鍵谷君の文章。アイドル好きが昂じて研究の対象になってるんじゃないか、と思わせてしまう、その真剣さに人間味を感じます。

  • 以上のように考えてみると、「ガチ恋」の身振りはいうなれば19 世紀のパリでバレエダンサーを見つめる視線、あるいは江戸時代の絵島生島事件での大奥の女性の姿を想起させる。しかしそれらとの決定的断絶は、そういった恋愛至上主義の「民主化」にともなって、恋という名のもとに「繋がる」ことの可能性が開かれたということだ。つまり、「ガチ恋」のあり方自体は、芸能がメディア化される以前には存在しなかったと言っても良い。メディアのもとでイメージ化された身体性と、そこからこぼれおちるアイドルのリアルな生との差異が、「ガチ恋」を発生させ、そうした介在の道を開くことになったのである。

この真面目な「ガチ恋」考察を、僕は個人的に面白く読ませてもらいました。体裁をしっかり整えた文体で「ガチ恋」について調べてしまう筆者の面構えは、どこか本人のアイドル好きを肯定するために意図的に仕組まれたかのように見えるところがあり、そこに僕は筆者の男子校出身者らしいユーモアを感じます笑。もっとも筆者の個人的な本音が見えてこない、という欠点は補いきれておらず、その点で独り語りの印象は否めませんが、頑なな文体の仮面の代わりに、徹底的な観察者という仮面をつけてわが身の辿ってきた足跡を消し去るだけの冷静さが見え隠れしていると言えるでしょう。

最後に宮田佳歩さんの文章を見てみましょう。


  • 女子会の主題に「恋バナ」というのがある。非生産的で不毛な会話だと思うが、面白いのは否めない。いや正直に言うと、私は恋バナが大好きだ。浮気の報復に彼氏の家の浴槽を増えるワカメでいっぱいにしたとか、教育実習生との個人的関係を持つことは禁止されていた女子中学生が卒業後に告白して付き合うとか、「可愛いなんて言われたことないです……」と照れる後輩に「これからは俺が毎日言ってやるよ」なんていう恥ずかし過ぎて聞くに堪えないセリフを発した同級生の話とか、どこまでが真実なのか怪しいけれどもキャーキャー騒ぎながら聞いているのはとても楽しい。

もしもここまでの3人の文章に勝敗をつけるとしたら、この書き出しに始まる宮田さんの文章が圧倒的な優位に立ってしまうのは避けがたい事実でしょう笑。何といっても女性の恋バナの前には、どんな論理も観察眼も歯が立ちません^^;
さらにそこから続く文学上の恋バナも説得力があります。文学のなかでの恋愛、そして恋愛をどう書くかという文壇上の議論を踏まえたこの文章は、おそらく中学生カップルたちも耳を傾ける恋愛の側面を上手く捉えているように思いました。「面白いのは否めない」という冒頭の一言が、おそらく恋愛を語るということのもっとも本質的な一面を表現しているのではないでしょうか。


このように、3者3様の語り口は読んでいて面白いものです。ですが、マージナリアとしては3者3様の恋バナを聞き出したかったような気もします。結局、恋愛を語る彼らの面構えは、彼らと恋愛との距離感を読者にさらけ出すだけのもの。その距離感も一つの恋愛事情を物語るものではありますが、ヤイ男ども、かっこつけてないで本音はどうなんだい、というのが僕の感想なのでした笑。

そんなわけで「各テーマのもつcontextの広がりを解きほぐす」というテーマ論説としての到達点はやや霞んだ感がありますが、「恋愛」というこの巨大なテーマの前にはどんな批評の鉄槌を下したってきっと意味はないでしょう。「面白いのは否めない」のですから。グルジアの恋愛事情についてもいつか書いてみようかな笑




●マージナリアはなんの雑誌なのか

予告通り、今回はマージナリア第6号の独断講評です(今回がいちばん抽象的な話)。おそらく不定期的に数回にわたって掲載していくことになるかと思います^^

 さて、マージナリアはおそらく第1号から最新号までの通読がとても難しい雑誌です笑。上の写真を見ればわかるかと思いますが、まず第1号から第6号までの見た目が劇的に変化していますよね。それはデザインだけの話ではなくて、中身にも言えること。そんな雑誌ですが、1号1号なんとなく良くはなっているよね、というのが読者のみなさんの感想かと思います。

 幸か不幸か、第6号はこれまでで僕が一番仕事に携われなかった号でした。それを逆手にとって、マージナリアを見直すチャンスに変えようというのが今回の講評のアイデア。僕は編集長という立場ですが、自省の意味もこめて、マージナリアの良いところ悪いところを全て書きつらねていこうと思います。

 さて、マージナリアはどう読めばいいのか。

 第6号はおもに「企画」と「自由投稿」の2種類から成っています。企画とは、ある1人の企画者が数人の書き手を集めて、特定のルールに基づいた文章を書いてもらうページのことです。対する自由投稿は、もっぱら1人の書き手が自分の好きな話題について書くページですね。これらの合間に、レビューであったり連載ものが挟まったりしています。

 なかでも初めてマージナリアを読む人には、最初に読んでほしい箇所が2つあります。それは、

  1. 巻頭言(pp.4-5)
  2. 第5号総評(pp.75-78)

の2つです。今回は第5号総評から紹介してみたいと思います。というのも、第5号総評に書かれている問題点が第6号あるいはマージナリア一般についても言えるとしたら、それはマージナリアの読み方に大きく影響してくるからです。まず、吉村勇志君の評を見てみます(下線は僕がつけました)。

  • 第5号に限らず思っていることではあるが、自由投稿が個人完結し易い印象がある。確かに、フィードバックや更にそれに対するフィードバックはあるのだが、ある人の自由投稿が別の人に大きく感銘を与え、その人の次の自由投稿を変えてしまうような、動的で双方向、複雑ネットワーク的なダイナミズムにはやや欠けている。・・・これの根本的要因を考えるに、本誌が一号完結であり、複数号に渡る企画が無いからではないかと思われる。・・・自分の論が他人を触発し、その反応が更に自分の思索を深めるような、独力では決して成し遂げられなかったであろう状態への到達という観点から見ると、それには成功していないということである。・・・

マージナリアは「相互に対話を行う」雑誌だと僕は考えていますが、問題は「誰と誰が、どんな対話を、なぜ行うのか」というところで、それは読んで面白いものなのか、ということも検討しなければいけません。では読者にとって面白いような、「相互に対話を行う」雑誌とはどんなものなんでしょうか。


  • 誰と誰が?(who)    →①読者と筆者が(読者は、筆者が自分に語りかけているのを感じる) / ②筆者同士が(読者の知的好奇心を満たすような多角的な議論)
  • どんな対話を?(what) →読者の知的好奇心を満たしたり(②)、彼らの考えを見直させる(①)ような対話
  • なぜ行うのか?(why) →★他人の境遇、立場、視点、意見に触れて、より広いものの見方を身につける雑誌(=マージナリアとはなんの雑誌なのか)

まさしくこの★の部分がマージナリアの本質にあたるわけですね。いま吉村君の評を読んでみると、「相互の知見を触発するような最良の方法(how)は試みられていない」ということが述べられているとわかります。

●第5号と第6号の交差点

もう1人の評者である宮田晃碩君は、彼自身がマージナリアの運営委員長であるという立場上、明確なcriticizeを行ってはいません。むしろ彼はこれをdescribeすることで、どのようなhowが必要とされているのかを明らかにしようとしています(下線は鷲見)。

  • ・・・「あなたのdiscipline をdefend せよ」という提題は意味が明晰であるように見えるが、提題者自身が「どのようにすればdiscipline をdefendしたことになるのか、それは私にもまだよくわかりません」と吐露している。これは無責任な逃避ではなくて、執筆者への挑戦である。「己の文章の意味を、己の文章それ自体によって示す」ということが求められているのだ。・・・

言ってみれば、筆者の読解力、そして文章力に雑誌としての良否がかかっている、というわけですね。筆者がなぜその文章を、誰にむけて、どう書くのか、ということを自覚して文章を書かない限り、マージナリアはその目的を達成することができないわけです。なおも現状として、そのような文章が相互に知的なinspirationを喚起できる環境は(少なくとも第5号には)十分に整っていない、ということが言えるでしょう。
 この2つの文章から得られる結論は以下の2点だと思います。

  1. この雑誌では、書き手の自分自身に対する高い省察能力が問われている(その意味で読者を感化することが期待されている)
  2. マージナリアが相方向的な対話の土壌となるには、書き手のみならず雑誌のシステムにさらなる工夫が必要(少なくとも読者は、そういう雑誌をマージナリアが目指している、ということを知っておくと読みやすい)

 ここでやっと、巻頭言を覗いてみます。巻頭言の書き手はふたたび宮田君です。

  • この冊子を作るにあたっては、企画を提案し、検討し、形を整えるという準備段階がありました。その後に「原稿募集要項」を公表し、主に知り合いの繋がりで寄稿者を募集します。・・・それから集まってきた原稿を編集し、さらにはそれに対するフィードバックをも書いてもらい(私も書いています)、校正など必要な過程を経て入稿に至るわけです。・・・私は、この過程をこそ読んでいただきたいと思うのです。この冊子には多くの対話が収められています。対話には時間がかかります。人間の対話であるかぎり、問いと答えが一挙に提示されることはありえません。「どう答えるか」ということがそれぞれの肩に懸っているのです。そして実際、私たちの言葉はどれも、何かへの答えとして発されるはずです。・・・

彼は、この巻頭言が第5号からさらに月日を経た、次なる対話の一部分であることを自覚しています。ですが、具体的に第5号と第6号の違いを明言するには至っていない。というのも、これは単なる推測ですが、「巻頭言」である以上、なにかの評ではなく、イントロダクションを書かなければいけないと思ったのではないでしょうか。あくまで包括的な視点から、どの原稿に対しても間違いなく言えるようなことが書かれたのです。なにも間違ってはいません。

 とはいえ、僕はここにマージナリアの一番の問題が眠っているように思います。半年に1回だけ出版されている紙媒体である以上、前号への言及は危険だ。かと言って次号について憶測をめぐらすには早すぎる。しかし当該号だけについて言えることが少ない。・・・かくしてマージナリアは毎号毎号、対話の一部分であり続けながら、一方でその号だけを取り出したとき、1つの重要な対話の全貌を形作ることができていないのだと思います。それというのも、各企画や自由投稿が1つの号のなかで閉ざされた対話として完結しているからであり、それがゆえに、雑誌としての継続性が「マージナリア」という題名のみによってしか保証されていないからです。本来ならば、「第5号総評」と「第6号巻頭言」のあいだにこそ、両者をつなぐ懸け橋が渡されているべきなのに、ここに大いなる隔絶が存している、それも第6号のなかに同時掲載されることによって断絶されている、というのは多分に皮肉です。
 第7号ではたとえば、こんなことをやってみても面白いかと思います。巻頭言として「第6号総評」を載せ、巻末言として「第8号イントロ」を載せてみる。終わりはつねに始まりであり、始まりはつねに終わりである、ってな調子ですね。そんな形式を作ったうえで、両者ともが第7号の中身についてさまざまな評言を含みうるのであれば、第7号はマージナリアの金字塔になるかもしれません。

 これはいわば装丁本の小口(こぐち)についてのお話。第5号の良さ悪さが第6号の各企画ではどう反映されているのか、という中身の話については次回のお楽しみとしましょう。第6号のなかでは、実際、相互のinspireに部分的に成功しているページが少なからず散見されるので、そういった企画や文章の面白さについてもまた次回以降見ていきたいと思います。今後は各ページについての言及が増えるかと思うので、ぜひお手元にマージナリア第6号を1冊用意しておいてくださいね~!

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▲バランシン・プロ

 みなさんこんにちは。5月も早や下旬にさしかかり、バレエ団でもようやく長いシーズンの終わりが見えてきました。

 先週末にキリアン・プロが終了し、この週末はバランシン・プロです。20世紀を代表する振付家ジョージ・バランシン(1904-1983)は、本名をギオルギ・バランチヴァーゼといい、父のメリトン・バランチヴァーゼはグルジアを代表する音楽家でした。ジョルジュ・ビゼーの同名作品(交響曲第1番ハ長調)に基づくバランシンの『シンフォニー・イン・C』は、グルジアバレエ団の芸術監督ニーナ・アナニアシヴィリさんが長年グルジアでの上演を望んでいた作品で、今回が今シーズンの初め以来の2度目の上演になります。

 『シンフォニー・イン・C』の構成はきわめてシンプル。第1楽章から第4楽章までにそれぞれプリンシパルの男女1組、ドゥミ・ソリスト2組を配し、これに各6~8名の女性コールドを加えた、全52名のキャストが1つの交響曲を形作ります。第4楽章では、同楽章のキャストが踊ったのち第1楽章から第3楽章までの踊り手が再登場し、息継ぐまもなく全楽章の踊り手が舞台上に結集する大団円を迎えることになります。驚くべきことに、この作品の原型である『水晶宮』(いわば改訂前の作品)をバランシンは2週間で作り上げており、17才でこの曲を作曲したビゼーもさることながら、天才たちの手腕が遺憾なく発揮された稀代の大作である、ということが言えると思います。

 バランシン作品はバランシン財団によって振付や映像作品が厳しく管理されており、そのほとんどの作品はインターネット上で閲覧することさえできません。おそらく『シンフォニー・イン・C』の全貌を唯一視聴できる動画がこちら。バランシンの本家ニューヨーク・シティ・バレエが1970年代に収録したものだそうです。もしお時間あれば覗いてみてください。ちなみに僕は第4楽章のドゥミ・ソリストを踊ります。


 さて話は変わりますが、つい先日トビリシにもマージナリア第6号が到着しました。これまでは編集時に中身をパパッと読みとおすのが普通で、しかもグルジアの郵便事情(家にまで配達されない、郵便物がたまに紛失する、etc.)を鑑みて雑誌自体の郵送はためらっていたのですが、ハガキなどでなく小包であればわりと短期間で届くことが判明。今号ではあまり編集に携われなかったこともあり、いやはや中身の新鮮なこと(笑)。出版後すぐに読めるのも久しぶり。
 ということで、一念発起することにしました。全企画全文章のフィードバックをこのブログに書いていきます!!フィードバックを書いていくなかで、今後のマージナリアにむけてのアイデアが固まっていけばよいな、というのが目標。今夏、日本に一時帰国するまでになんとか全て書ききって、日本では実際に寄稿者のみなさんと会ったり、次なるプロジェクトにむけて僕自身が動き回れればなと思っています。無論、一介のバレエダンサーが哲学やら科学やらいろんなジャンルの文章を横断することになるので、無茶なことを書くことも少なからずあるかと思いますが、その際はぜひコメントなどいただければ幸いです。というわけで次回ブログはマージナリア第6号独断講評です。お楽しみに。
▲先週のキリアン・プロ。



 スペインツアーも終わり、3日前には今シーズン最後の『火の鳥』が終演しました。スペインではバルセロナ近辺に滞在していましたが、思いがけない花粉症の再来に苦しめられました・・・^^;
 バルセロナはスペイン語よりもカタルーニャ語がよく使われる地域です。スペイン語のconがカタルーニャ語ではambに置き換えられているのを見て、「おお、ポルトガル語のambosと同じ語源じゃないかあああ」と思ったり(英語のambulanceなどもそうです)、いろいろ楽しみました笑。

 それはさておき、今夜はふたたび『ゴルダ』の再演です。


 先日のプレミア(2月)が、5月1日にグルジア全土でテレビ放映されるようです。こちらはその予告動画。インド人のような格好をしたダンサーが僕ですね・・・新劇場がオープンして以来、ほぼずっと悪役続きです笑。
 チャブキアーニのバレエ『ゴルダ』については、僕がマージナリア第6号で詳しく取り上げています。ちょうど明日4月28日は、そのお披露目会(配布・食事会)。毎度その場に居合わせられないのが残念ですが、今号は恋愛から宗教まで幅広く扱った力作になっています。郵送サービスもありますので、ぜひ一度お手にとってご覧ください!

▲『ゴルダ』のキャストが書かれたポスター


 ちなみに今週末は正教のイースター(復活祭)ということで、3~4連休。その後バレエ団は、キリアンやバランシンのプログラムを予定しています。どのプログラムに僕が出るかはまだわかりませんが、このブログでもいろんな作品を紹介できればと思います。

 【警告】ブログまじめ回です(笑)


 みなさんはポリグロットという言葉を聞いたことがありますか?

 簡単に言うと、ポリグロット(polyglot)とは複数の言語を操れる人々のことです。つまり、バイリンガルやトリリンガルの人々のことです。
 2年前、僕はマージナリアに「Against translation」という英文の記事を書いたことがあります。いろんな概念や用語を使いすぎたせいでかなり難解な文章になってしまい、周囲の反応もあったりなかったり、という感じだったんですが、これはまさしくポリグロットについて書いた文章でした。

 ちょうどアムステルダムに住んで2年目の頃だったと思いますが、僕は「ようやく英語も自然体でしゃべれるようになってきたな~」という自覚を持ち始めていました。それがやぶから棒な話ですが、ある日、友人となんともない会話を英語でしているときに、英語でも日本語でも表現できない異様な感覚にぶつかった気がしたんです^^;
 自分がいまテーブルを介して友達としゃべっていることは明白だし、日本語でも英語でもそんなことは表現できる。だがいったいいまの感覚はなんだったんだろう、どちらの言語も僕の脳裡から消えてしまっていたような気がする。僕はもしかすると、2つの言語の狭間にいたんじゃないか――? 変な言い方をすれば、その一瞬、幽体離脱したみたいなふうにモノが見えたんです。ちゃんと見えているんだけど、自分が見ているような気がしない、という感じでした。

 それがなんでバイリンガルと関係あるのか、というと、僕は
「今まで見ていた世界は日本語しか使っていなかった僕が見ていた世界でしかなくて、違う言語を異文化の中で使う人には、たとえそれが同一人物だったとしても、当然ものごとは違ったふうに見えるんじゃないか?」
という感じに考えを進めてみたんです。ああそれなら、「自分のなかのもう一人の自分」という仮説を立ててなにか書いてみようと思い立った結果が、「Against translation」という文章です。
 せっかくなので、なにを書いていたのか引用してみます。長いので読み飛ばしてもらっても構いません。


  • Knowledge hardly helps our intuitive cognition of language; we could not easily become Olympic athletes just by understanding some scientific theories on the possibilities of our body, how to train ourselves and so on. It seems to me rather reasonable to say, from the point of view of Yogācāra, that the idea of dividing language from thought might be a delusion, perhaps caused by the function of words inventing meaning, and that they could be fundamentally identical in ontology: until the moment I felt as if my words were gone, my thought should have been Japanese, that is, Japanese should have been my thought. What happened to me must have been something trivial if I had placed myself into the depths of my consciousness. Simply because my thought, which I thought I could render in English, was actually Japanese, a serious contradiction arose between the two languages: there was no way to keep my thought from the crucible of self-denial. And yet this contradiction was unavoidable. To solve this situation I need to have another thought instead of Japanese, which used to be my thought. Thus I have to be two, or my body, the mouth of which is sealed, has nothing to do but stare at the unearthly emptiness surrounding me, about to tear me into two bloody pieces of flesh.
  • (訳) 知識が言語に対するわたしたちの直感的な認識を助けることはほとんどありません。わたしたちの肉体が秘める可能性や、どうやってトレーニングをすべきかということについて書かれた科学的な理論を理解したところで、簡単にオリンピック選手になれるかといえばそうではないでしょう。わたしはむしろ、唯識論の観点から、こう言いたくなります。思考を言語と区別するという考え方は、きっと意味を創り出す言葉の機能によってもたらされた幻想であり、存在論的にはどちらも同じものであるのかもしれない、と。すなわち、自分の言葉が消え去ってしまったと感じたそのときまで、わたしの思考は日本語そのもの、つまり、日本語がわたしの思考だったはずなのです。あの瞬間、私に起きたことは、もしもわたしが自分自身の意識の奥深くにまで通底していたなら、なんでもないことだったに違いありません。ただ単に、英語にも置き換えることができるだろうと思っていたわたしの思考が、実際には日本語そのものだったからこそ、2つの言語のあいだで深刻な矛盾が生じたのです。自己否定のるつぼに陥らざるをえない、と私が思ったのも無理はありません。しかもこの矛盾は不可避だったのです。この状況を打開するためにも、わたしは、わたしの思考そのものであった日本語のほかに、もう1つの思考を手に入れる必要がありました。それゆえ、わたしは2人でなければなりません。さもなくば、口を封じられたわたしの肉体は、おどろおどろしい周囲の空虚が、いまにもわたしを2つの血みどろな肉片に切り裂こうとするのを、ただ眺めるほかないのです。


まあなんともキザな文章ですが、要するに、「日本語を使うわたし」と「英語を使うわたし」は別人なんじゃないか、と言ってるんですね。最近読んだBBCの記事によると、バイリンガルの人々はしばしば彼らの話す言語に応じて異なるふるまい方をする、ということが、事実いくつもの研究によって確認されているようです。


 このあと、僕の文章はとんでもない方向にまで触手を伸ばしていきます(笑)。筆写された口語の歴史、ツイッターの実験、言語多様性をめぐる翻訳の可能性・・・まあところどころで無理が生じてますが、サルトルの有名な「言語脱落」を出発点に定めた当時の僕は、another us(もう1つのわたしたち)という存在にスポットライトを当て、この透明人間のような何者かをわれわれ自身の母語の対極に据えることで、この相対化の枠組みが自己修養の方法として有用であることを示したかったのかなと思います。最終的には、肉体(=わたしたちにとってただ1つしかないもの)を言葉=思考(=わたしたちのなかにいる、複数のわたしたち)から峻別しないと、本当の意味での自分の言葉は得られないよ、みたいなことにまで触れたように思います。(自信をもって要訳できません笑)

 この手法がマージナリア第4号では、時間と場所にまで応用されていくわけですが・・・それはともかく。

 ポリグロットというのは、なにも特殊な才能をもった人々のことではありません。さまざまな言語に囲まれた環境で何年も過ごせば、程度差こそあれ、誰でも複数の言語を理解できるようにはなります。ただおそらく、生まれてからずっと2ヶ国語・3ヶ国語に囲まれてきた人たちは、本当の意味でポリグロットではないのではないでしょうか。彼らは自分のまわりにあった言葉を異なる環境、異なる人々のあいだで使われるものだとは意識せずに使ってきたわけで、いわばそれら数ヶ国語を全部ひっくるめて1つの言語のように使っています。もしもスペイン語を知っていれば、そこからさらにフランス語を習うのは簡単でしょうし、概して次のステップに進むのは楽でしょうが、きっとある時点でそれぞれの言語を明確に使い分ける必要に迫られます。たとえばスペイン語のつぎにロシア語を勉強しようものなら、もともと1ヶ国語しか話せない人々同様、さまざまな苦労を経験することになるでしょう。
 このように、人それぞれ段階は異なりますが、ポリグロットになると結局、各言語を厳しく使い分けざるをえなくなります。彼らはある段階において、自分の知っていた言語を新たな言語に照応させるプロセスを踏み、母国語をも1つの客観的な言語として置き換えていくことになります。自分にとって当然だったものを一度解体し、いわば再構築していくわけですから、これは結局、自分史を整理していくことにもなるんです(この話は個人的にマージナリア特別号掲載予定の文章にもつながっています^^)。

 さきほど掲げたBBCの記事は、異なる言語が異なる記憶を呼び起こす、ということも指摘しています。たとえば、
 「なにやってんだ!!」
という言葉は僕にとって、中高時代の先生を思い出させ、
 "What are you doing??"
という言葉はポルトガル・オランダ時代の先生らを思い出させるわけですね(笑)。当然のことだと思います。その意味で、わたしたちが言語ごとに「異なる自分」を形成しているとしても、それはなんら怪訝なことではありません。
 ただ、そういったことも踏まえた上で、わたしはわたし、1人だということを思い出してほしいと思います。英語のときはaggressiveに話す傾向があって、日本語のときはshyに話しがちだとしても、じゃあ英語のほうが得意だからaggressiveな自分がわたしなんだ、ということには絶対になりません。日本人の習慣に合わせて敬語で話すのは面倒だから、おれは英語流でいくぞ、だとかさまざまに考える人がいるとは思いますが、悶々としたときはぜひ鏡を覗きこんでみてください。鏡に映るのはあなただけです。あなたのなかに何人のあなたがいようとも、いま、そこにいるのはあなた1人だけだということを忘れないでほしいと思います。正直に、真摯に生きるのが一番の得策です。



 グルジア国立バレエ団は今月、ミハイル・フォーキンの『火の鳥』を上演しています。



 2月に国立オペラ・バレエ劇場がリニューアル・オープンして以来、バレエ団の上演プログラムはほぼ全て「初演」です。まず最初にヴァフタング・チャブキアーニの『ゴルダ』をニーナ・アナニアシヴィリによる改訂版という形で十数年ぶりに復刻上演、また、アレクセイ・ラトマンスキーの『レア』をふくむプログラムでは、おそらくはソ連崩壊以後初めてとなる、モスクワ・ボリショイ劇場への客演も果たしました。3月以降も、ファジェーチェフ版『白鳥の湖』、そして今回の『火の鳥』と初演が続いており、なにひとつ新作のなかった先シーズンに比べると、今シーズンは凄まじいほどの初演ラッシュだと言えます。
 『ゴルダ』については今月下旬に発売されるマージナリア最新号で詳しく取り上げたので、ぜひそちらをご覧ください!ラトマンスキーの『レア』もなかなか興味深い作品なので、そのうちこのブログにてご紹介したいと思います。


 1週間ほど前からは一部のソリストらがイタリア・スペインをツアー中。僕はスペイン合流組ということで、ようよう自由な時間を満喫しています。おととい4月9日はDay of National Unityだったこともあり、今週は奇蹟的に週休2日(笑)。ひまにまかせて、『火の鳥』の全曲スコアを眺めたり、サボっていた語学の勉強にいそしんだりしています。

*:ソ連末期の1989年4月9日、グルジア人のデモ隊とソビエト軍とのあいだ大規模な衝突が起こり、死傷者が多数出た。その悲劇を記念した国民の祝日。

▲チャブキアーニ『ゴルダ』のポスター
それにしても、『火の鳥』は恐ろしい作品です。リヒャルト・ワーグナーの総合芸術論を真に受けて各界の前衛芸術家らを集めたディアギレフもさりながら、そのうちのどの領域をとってみても驚くべき工夫に満ちた作品というのは、無論1人の手で作れる代物ではありません。マージナリアを作っていても思いますが、1人のアイデアというのはアイデアの領域を出ないことが多いものです。それがある一つの形をとって奇想天外な作品となるためには、他人との化学反応が必要だったりするんですよね。『火の鳥』の音楽を用いた作品は後代数多く作られましたが、どんなに現代的な手法を導入したとしても、きっと1910年の初演版を超える存在は出てこないのではないか、とさえ思えてきます。
 今回、グルジア国立バレエ団で初演するにあたっては、アンドリス・リエパが指導にあたっており、フォーキン・プロという名目で『ショピニアーナ(レ・シルフィード)』と『薔薇の精』も同時上演されています。フォーキンという稀代の振付家がどのような世界観をもって作品を組み立てていったか、ということを渉猟するのに格好のプログラム編成だと思います。それぞれの作品についていろいろ考えるところもあるんですが、フォーキン論はまたの機会に(笑)。

 もしあなたが楽譜を少しでも読めるダンサーならば、一度『火の鳥』のスコアを覗いてみることをおすすめします。きっと一度ならず「こんなのどうやったら思いつくんだよ?」「どこ演奏してるか全くわからんww」と思うはずです。演奏者とダンサーがお互いの領分を守りつつ、お互いを十分に刺激し合えるような作品、それが『火の鳥』です。



 ちょっと前に、「つまらない世代」なんていう高飛車な文章を書いたことがあります。

 端的にいうと、僕らはもっと面白いことをしなきゃだめだな、面白いことがあったらみんなももっと自分から寄ってほしい、なんてことを書いてたわけです。

 しかしよく考えてみたら、面白い人間の周りに集まる人間が面白いとは限りません。そして、僕はなにもそんな有名人になるために面白くなりたかったのでもない・・・笑
 
 面白くなるために個々人が必要なこと、みたいなものをそのときの僕は書いてたわけですが、四六時中、面白いことができる人間なんてほぼいません。どんな人間に対してなら、僕らは面白くなれるんでしょうか。

 たとえば身のまわりにはいろんな人間がいます。人の話を聴かずにすぐ反論するような人だったり、誰に対しても公平な態度で接することができる人だったり・・・数えきれないほどの人間がいます。どんな人に対してなら気兼ねなく、素直に、自分の率直な気持ちを打ち明けることができるでしょうか。

 僕自身はプライドが高い人間なので、人に相談するのは苦手です。だからこそ人の相談には乗ってあげたいと思う。ただきっと、僕ならこういう寡黙な人間に相談することはないだろうな、とも思うわけです笑。

 つまり、さしあたって人と問題が起きないような、そういう関係だけではまだ不十分。相手の出方を見て受けを変える柔道のようなものです。決してなにもしないわけではありませんが、ある種のactiveなpassivenessを身につけると、相手の動きが相手自身を負かすことになるわけです。日常生活においては、知識や技術といったものへのアンテナの多さではなく、相手の面白さを受け止める器の深さが、その人の不必要な警戒を解かせることにつながり、お互いの人知れぬ面白さを引き出す鍵になっていくんだろうと思います。

 面白い~面白い~と語弊のある言い方を続けてますがw、まあ僕はaggressiveよりもassertiveな自然体で、できることをやっていきます。


  1. バレエダンサー。
  2. グルジア在住。
  3. 雑誌「マージナリア」の編集者およびライター。


という立場だからこそ書けるようなことを書くことにしました。

あと10年もすれば、このうちのどれも僕の肩書きではなくなるかもしれません。
そういうわけで、この立場だから書けることを書く、というのは2016年の僕だから書けることです。
マージナリアみたいに気負って書くことはせずに、日記のようなつもりで書こうと思います。


今回はちょっとした自己紹介。
雑誌「マージナリア」を始めたのは、高校のころです。
高校卒業後に「マージナリア」という名前で再始動し、いまに至ります。
同じころ、ヨーロッパへバレエ留学し、2年前にグルジアへ。
現在はグルジア国立バレエ団で働いています。
最近ジョージアと名前を変えたあの国です。
そんなわけで、GeorgiaとMarginaliaが交わる唯一の接点が、このGeorginalia。
つまり僕自身です。
グルジア国立バレエ団のことや、グルジアでの生活、バレエのこと、そしてマージナリアの活動のことなどを書きつづることになると思います。

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