スペインツアーも終わり、3日前には今シーズン最後の『火の鳥』が終演しました。スペインではバルセロナ近辺に滞在していましたが、思いがけない花粉症の再来に苦しめられました・・・^^;
 バルセロナはスペイン語よりもカタルーニャ語がよく使われる地域です。スペイン語のconがカタルーニャ語ではambに置き換えられているのを見て、「おお、ポルトガル語のambosと同じ語源じゃないかあああ」と思ったり(英語のambulanceなどもそうです)、いろいろ楽しみました笑。

 それはさておき、今夜はふたたび『ゴルダ』の再演です。


 先日のプレミア(2月)が、5月1日にグルジア全土でテレビ放映されるようです。こちらはその予告動画。インド人のような格好をしたダンサーが僕ですね・・・新劇場がオープンして以来、ほぼずっと悪役続きです笑。
 チャブキアーニのバレエ『ゴルダ』については、僕がマージナリア第6号で詳しく取り上げています。ちょうど明日4月28日は、そのお披露目会(配布・食事会)。毎度その場に居合わせられないのが残念ですが、今号は恋愛から宗教まで幅広く扱った力作になっています。郵送サービスもありますので、ぜひ一度お手にとってご覧ください!

▲『ゴルダ』のキャストが書かれたポスター


 ちなみに今週末は正教のイースター(復活祭)ということで、3~4連休。その後バレエ団は、キリアンやバランシンのプログラムを予定しています。どのプログラムに僕が出るかはまだわかりませんが、このブログでもいろんな作品を紹介できればと思います。

 【警告】ブログまじめ回です(笑)


 みなさんはポリグロットという言葉を聞いたことがありますか?

 簡単に言うと、ポリグロット(polyglot)とは複数の言語を操れる人々のことです。つまり、バイリンガルやトリリンガルの人々のことです。
 2年前、僕はマージナリアに「Against translation」という英文の記事を書いたことがあります。いろんな概念や用語を使いすぎたせいでかなり難解な文章になってしまい、周囲の反応もあったりなかったり、という感じだったんですが、これはまさしくポリグロットについて書いた文章でした。

 ちょうどアムステルダムに住んで2年目の頃だったと思いますが、僕は「ようやく英語も自然体でしゃべれるようになってきたな~」という自覚を持ち始めていました。それがやぶから棒な話ですが、ある日、友人となんともない会話を英語でしているときに、英語でも日本語でも表現できない異様な感覚にぶつかった気がしたんです^^;
 自分がいまテーブルを介して友達としゃべっていることは明白だし、日本語でも英語でもそんなことは表現できる。だがいったいいまの感覚はなんだったんだろう、どちらの言語も僕の脳裡から消えてしまっていたような気がする。僕はもしかすると、2つの言語の狭間にいたんじゃないか――? 変な言い方をすれば、その一瞬、幽体離脱したみたいなふうにモノが見えたんです。ちゃんと見えているんだけど、自分が見ているような気がしない、という感じでした。

 それがなんでバイリンガルと関係あるのか、というと、僕は
「今まで見ていた世界は日本語しか使っていなかった僕が見ていた世界でしかなくて、違う言語を異文化の中で使う人には、たとえそれが同一人物だったとしても、当然ものごとは違ったふうに見えるんじゃないか?」
という感じに考えを進めてみたんです。ああそれなら、「自分のなかのもう一人の自分」という仮説を立ててなにか書いてみようと思い立った結果が、「Against translation」という文章です。
 せっかくなので、なにを書いていたのか引用してみます。長いので読み飛ばしてもらっても構いません。


  • Knowledge hardly helps our intuitive cognition of language; we could not easily become Olympic athletes just by understanding some scientific theories on the possibilities of our body, how to train ourselves and so on. It seems to me rather reasonable to say, from the point of view of Yogācāra, that the idea of dividing language from thought might be a delusion, perhaps caused by the function of words inventing meaning, and that they could be fundamentally identical in ontology: until the moment I felt as if my words were gone, my thought should have been Japanese, that is, Japanese should have been my thought. What happened to me must have been something trivial if I had placed myself into the depths of my consciousness. Simply because my thought, which I thought I could render in English, was actually Japanese, a serious contradiction arose between the two languages: there was no way to keep my thought from the crucible of self-denial. And yet this contradiction was unavoidable. To solve this situation I need to have another thought instead of Japanese, which used to be my thought. Thus I have to be two, or my body, the mouth of which is sealed, has nothing to do but stare at the unearthly emptiness surrounding me, about to tear me into two bloody pieces of flesh.
  • (訳) 知識が言語に対するわたしたちの直感的な認識を助けることはほとんどありません。わたしたちの肉体が秘める可能性や、どうやってトレーニングをすべきかということについて書かれた科学的な理論を理解したところで、簡単にオリンピック選手になれるかといえばそうではないでしょう。わたしはむしろ、唯識論の観点から、こう言いたくなります。思考を言語と区別するという考え方は、きっと意味を創り出す言葉の機能によってもたらされた幻想であり、存在論的にはどちらも同じものであるのかもしれない、と。すなわち、自分の言葉が消え去ってしまったと感じたそのときまで、わたしの思考は日本語そのもの、つまり、日本語がわたしの思考だったはずなのです。あの瞬間、私に起きたことは、もしもわたしが自分自身の意識の奥深くにまで通底していたなら、なんでもないことだったに違いありません。ただ単に、英語にも置き換えることができるだろうと思っていたわたしの思考が、実際には日本語そのものだったからこそ、2つの言語のあいだで深刻な矛盾が生じたのです。自己否定のるつぼに陥らざるをえない、と私が思ったのも無理はありません。しかもこの矛盾は不可避だったのです。この状況を打開するためにも、わたしは、わたしの思考そのものであった日本語のほかに、もう1つの思考を手に入れる必要がありました。それゆえ、わたしは2人でなければなりません。さもなくば、口を封じられたわたしの肉体は、おどろおどろしい周囲の空虚が、いまにもわたしを2つの血みどろな肉片に切り裂こうとするのを、ただ眺めるほかないのです。


まあなんともキザな文章ですが、要するに、「日本語を使うわたし」と「英語を使うわたし」は別人なんじゃないか、と言ってるんですね。最近読んだBBCの記事によると、バイリンガルの人々はしばしば彼らの話す言語に応じて異なるふるまい方をする、ということが、事実いくつもの研究によって確認されているようです。


 このあと、僕の文章はとんでもない方向にまで触手を伸ばしていきます(笑)。筆写された口語の歴史、ツイッターの実験、言語多様性をめぐる翻訳の可能性・・・まあところどころで無理が生じてますが、サルトルの有名な「言語脱落」を出発点に定めた当時の僕は、another us(もう1つのわたしたち)という存在にスポットライトを当て、この透明人間のような何者かをわれわれ自身の母語の対極に据えることで、この相対化の枠組みが自己修養の方法として有用であることを示したかったのかなと思います。最終的には、肉体(=わたしたちにとってただ1つしかないもの)を言葉=思考(=わたしたちのなかにいる、複数のわたしたち)から峻別しないと、本当の意味での自分の言葉は得られないよ、みたいなことにまで触れたように思います。(自信をもって要訳できません笑)

 この手法がマージナリア第4号では、時間と場所にまで応用されていくわけですが・・・それはともかく。

 ポリグロットというのは、なにも特殊な才能をもった人々のことではありません。さまざまな言語に囲まれた環境で何年も過ごせば、程度差こそあれ、誰でも複数の言語を理解できるようにはなります。ただおそらく、生まれてからずっと2ヶ国語・3ヶ国語に囲まれてきた人たちは、本当の意味でポリグロットではないのではないでしょうか。彼らは自分のまわりにあった言葉を異なる環境、異なる人々のあいだで使われるものだとは意識せずに使ってきたわけで、いわばそれら数ヶ国語を全部ひっくるめて1つの言語のように使っています。もしもスペイン語を知っていれば、そこからさらにフランス語を習うのは簡単でしょうし、概して次のステップに進むのは楽でしょうが、きっとある時点でそれぞれの言語を明確に使い分ける必要に迫られます。たとえばスペイン語のつぎにロシア語を勉強しようものなら、もともと1ヶ国語しか話せない人々同様、さまざまな苦労を経験することになるでしょう。
 このように、人それぞれ段階は異なりますが、ポリグロットになると結局、各言語を厳しく使い分けざるをえなくなります。彼らはある段階において、自分の知っていた言語を新たな言語に照応させるプロセスを踏み、母国語をも1つの客観的な言語として置き換えていくことになります。自分にとって当然だったものを一度解体し、いわば再構築していくわけですから、これは結局、自分史を整理していくことにもなるんです(この話は個人的にマージナリア特別号掲載予定の文章にもつながっています^^)。

 さきほど掲げたBBCの記事は、異なる言語が異なる記憶を呼び起こす、ということも指摘しています。たとえば、
 「なにやってんだ!!」
という言葉は僕にとって、中高時代の先生を思い出させ、
 "What are you doing??"
という言葉はポルトガル・オランダ時代の先生らを思い出させるわけですね(笑)。当然のことだと思います。その意味で、わたしたちが言語ごとに「異なる自分」を形成しているとしても、それはなんら怪訝なことではありません。
 ただ、そういったことも踏まえた上で、わたしはわたし、1人だということを思い出してほしいと思います。英語のときはaggressiveに話す傾向があって、日本語のときはshyに話しがちだとしても、じゃあ英語のほうが得意だからaggressiveな自分がわたしなんだ、ということには絶対になりません。日本人の習慣に合わせて敬語で話すのは面倒だから、おれは英語流でいくぞ、だとかさまざまに考える人がいるとは思いますが、悶々としたときはぜひ鏡を覗きこんでみてください。鏡に映るのはあなただけです。あなたのなかに何人のあなたがいようとも、いま、そこにいるのはあなた1人だけだということを忘れないでほしいと思います。正直に、真摯に生きるのが一番の得策です。



 グルジア国立バレエ団は今月、ミハイル・フォーキンの『火の鳥』を上演しています。



 2月に国立オペラ・バレエ劇場がリニューアル・オープンして以来、バレエ団の上演プログラムはほぼ全て「初演」です。まず最初にヴァフタング・チャブキアーニの『ゴルダ』をニーナ・アナニアシヴィリによる改訂版という形で十数年ぶりに復刻上演、また、アレクセイ・ラトマンスキーの『レア』をふくむプログラムでは、おそらくはソ連崩壊以後初めてとなる、モスクワ・ボリショイ劇場への客演も果たしました。3月以降も、ファジェーチェフ版『白鳥の湖』、そして今回の『火の鳥』と初演が続いており、なにひとつ新作のなかった先シーズンに比べると、今シーズンは凄まじいほどの初演ラッシュだと言えます。
 『ゴルダ』については今月下旬に発売されるマージナリア最新号で詳しく取り上げたので、ぜひそちらをご覧ください!ラトマンスキーの『レア』もなかなか興味深い作品なので、そのうちこのブログにてご紹介したいと思います。


 1週間ほど前からは一部のソリストらがイタリア・スペインをツアー中。僕はスペイン合流組ということで、ようよう自由な時間を満喫しています。おととい4月9日はDay of National Unityだったこともあり、今週は奇蹟的に週休2日(笑)。ひまにまかせて、『火の鳥』の全曲スコアを眺めたり、サボっていた語学の勉強にいそしんだりしています。

*:ソ連末期の1989年4月9日、グルジア人のデモ隊とソビエト軍とのあいだ大規模な衝突が起こり、死傷者が多数出た。その悲劇を記念した国民の祝日。

▲チャブキアーニ『ゴルダ』のポスター
それにしても、『火の鳥』は恐ろしい作品です。リヒャルト・ワーグナーの総合芸術論を真に受けて各界の前衛芸術家らを集めたディアギレフもさりながら、そのうちのどの領域をとってみても驚くべき工夫に満ちた作品というのは、無論1人の手で作れる代物ではありません。マージナリアを作っていても思いますが、1人のアイデアというのはアイデアの領域を出ないことが多いものです。それがある一つの形をとって奇想天外な作品となるためには、他人との化学反応が必要だったりするんですよね。『火の鳥』の音楽を用いた作品は後代数多く作られましたが、どんなに現代的な手法を導入したとしても、きっと1910年の初演版を超える存在は出てこないのではないか、とさえ思えてきます。
 今回、グルジア国立バレエ団で初演するにあたっては、アンドリス・リエパが指導にあたっており、フォーキン・プロという名目で『ショピニアーナ(レ・シルフィード)』と『薔薇の精』も同時上演されています。フォーキンという稀代の振付家がどのような世界観をもって作品を組み立てていったか、ということを渉猟するのに格好のプログラム編成だと思います。それぞれの作品についていろいろ考えるところもあるんですが、フォーキン論はまたの機会に(笑)。

 もしあなたが楽譜を少しでも読めるダンサーならば、一度『火の鳥』のスコアを覗いてみることをおすすめします。きっと一度ならず「こんなのどうやったら思いつくんだよ?」「どこ演奏してるか全くわからんww」と思うはずです。演奏者とダンサーがお互いの領分を守りつつ、お互いを十分に刺激し合えるような作品、それが『火の鳥』です。



 ちょっと前に、「つまらない世代」なんていう高飛車な文章を書いたことがあります。

 端的にいうと、僕らはもっと面白いことをしなきゃだめだな、面白いことがあったらみんなももっと自分から寄ってほしい、なんてことを書いてたわけです。

 しかしよく考えてみたら、面白い人間の周りに集まる人間が面白いとは限りません。そして、僕はなにもそんな有名人になるために面白くなりたかったのでもない・・・笑
 
 面白くなるために個々人が必要なこと、みたいなものをそのときの僕は書いてたわけですが、四六時中、面白いことができる人間なんてほぼいません。どんな人間に対してなら、僕らは面白くなれるんでしょうか。

 たとえば身のまわりにはいろんな人間がいます。人の話を聴かずにすぐ反論するような人だったり、誰に対しても公平な態度で接することができる人だったり・・・数えきれないほどの人間がいます。どんな人に対してなら気兼ねなく、素直に、自分の率直な気持ちを打ち明けることができるでしょうか。

 僕自身はプライドが高い人間なので、人に相談するのは苦手です。だからこそ人の相談には乗ってあげたいと思う。ただきっと、僕ならこういう寡黙な人間に相談することはないだろうな、とも思うわけです笑。

 つまり、さしあたって人と問題が起きないような、そういう関係だけではまだ不十分。相手の出方を見て受けを変える柔道のようなものです。決してなにもしないわけではありませんが、ある種のactiveなpassivenessを身につけると、相手の動きが相手自身を負かすことになるわけです。日常生活においては、知識や技術といったものへのアンテナの多さではなく、相手の面白さを受け止める器の深さが、その人の不必要な警戒を解かせることにつながり、お互いの人知れぬ面白さを引き出す鍵になっていくんだろうと思います。

 面白い~面白い~と語弊のある言い方を続けてますがw、まあ僕はaggressiveよりもassertiveな自然体で、できることをやっていきます。


  1. バレエダンサー。
  2. グルジア在住。
  3. 雑誌「マージナリア」の編集者およびライター。


という立場だからこそ書けるようなことを書くことにしました。

あと10年もすれば、このうちのどれも僕の肩書きではなくなるかもしれません。
そういうわけで、この立場だから書けることを書く、というのは2016年の僕だから書けることです。
マージナリアみたいに気負って書くことはせずに、日記のようなつもりで書こうと思います。


今回はちょっとした自己紹介。
雑誌「マージナリア」を始めたのは、高校のころです。
高校卒業後に「マージナリア」という名前で再始動し、いまに至ります。
同じころ、ヨーロッパへバレエ留学し、2年前にグルジアへ。
現在はグルジア国立バレエ団で働いています。
最近ジョージアと名前を変えたあの国です。
そんなわけで、GeorgiaとMarginaliaが交わる唯一の接点が、このGeorginalia。
つまり僕自身です。
グルジア国立バレエ団のことや、グルジアでの生活、バレエのこと、そしてマージナリアの活動のことなどを書きつづることになると思います。

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