つい昨日、こういった情報が解禁されたのをみなさんはもうご存知でしょうか??


 来日する6つの名門バレエ学校とは、つまり

  • ワガノワ・バレエ・アカデミー
    (ロシア・サンクトペテルブルク)
  • ハンブルク・バレエ学校
    (ドイツ・ハンブルク)
  • ウィーン国立歌劇場バレエ学校
    (オーストリア・ウィーン)
  • ハーグ王立コンセルヴァトワール
    (オランダ・ハーグ)
  • カナダ国立バレエ学校
    (カナダ・トロント)
  • オーストラリアン・バレエ・スクール
    (オーストラリア・メルボルン)

のことです。この企画、おそらく成功裡に終わるだろうとは思うのですが、


 いや、名門ってなによ??


ということを誰かがはっきりと批評すべきだと思ったので、記事にしました。


▶名門はブランドでしかない


 日本バレエ界における黎明期、すなわち戦後まもなくの頃、バレエはロシア一国のものだと言っても過言ではありませんでした。世界全体を見渡しても、ソビエトほどの規模や水準でバレエが体系的に栄えた国はほとんどなかっただろうと思います。

 欧米バレエ界の礎を築いた立役者は、大半がソビエト連邦から欧米へ抜け出ていったダンサーや振付家たちです。バレエ・リュスの後裔もさることながら、バランシンやヌレエフ、マカロワ、バリシニコフといったスターたちなくしては、今の欧米バレエ界はありえませんでした。

 かくて欧米各国に根付いた大型のバレエ団は、ロシア系のダンサーに門戸を開くとともに、バレエ界における「後進国」から現れた逸材を雇うことでバレエ団独自のアイデンティティを築こうとしました。フリオ・ボッカをはじめ、カルロス・アコスタや熊川さんの活躍などはその典型的な例だと思います。

 その結果、21世紀に彼らを待っていたのは、皮肉にもインターネット(特にYoutube)の普及による、地域格差の縮小でした。いまやマリインスキー劇場でもっとも人気のあるプリンシパルは韓国人であり、ロイヤルバレエ団やシュツットガルトバレエ団におけるイギリス人、ドイツ人ダンサーの人数はそれぞれ数えるばかりになっています。

 ロシア人があらゆる国と地域で教鞭をとり、なにがクラシック・バレエなのか、というスタイルの違いすらも曖昧になっている現今において、いわゆる名門が名門である格別の理由はもはやないのです。バレエ界における名門卒とは、たとえるなら「ハーバード卒のプログラマー」であり、そこからバレエ界のスティーブ・ジョブズやイーロン・マスクが生まれる可能性は、むしろ低いのではないでしょうか。


▶名門のない日本だからこそ、名門にこだわる意味はない


 日本はそもそも国立のバレエ学校の存在しない国であり、そのためか海外のバレエ学校をむやみやたらと持ち上げる風潮が絶えません。無論、バレエだけに集中できる環境に身を置かない限り、競争の激しい昨今のバレエ界を生き抜くことがほぼ不可能なのは確かです。とはいえ、若いダンサーが海外に行くことは何を意味するのか、ということを辛辣に批評する土壌はまだ培われていないように感じられます。

 海外で踊ることを決意する、ということは、単に日本を離れることだけを意味しません。目的もなく海外で踊りたい、というほどの甘さは論外として、「ダンスでお金を稼ぐ」という目的をもって海外に向かったのであれば、極論それは日本に帰れない、ということを意味します。なぜなら海外と同じ生活水準・サポート水準を保ったまま、日本でその目的を達成することは現状不可能だからであり、日本に帰ることは必ずやそのいずれかを犠牲にすることを意味するからです。

 しかも海外の「名門」から奨学金を受け取るような日本のダンサーたちは、その時点でかなりの技術水準に達していることが少なくありません。むしろ、生活の自由を得たことでダンサーとしては伸び悩んでしまったという人もいるほどです。

 事実、名門のない国であったからこそ、日本のバレエ界は国内で競争を高め合う特異な環境を醸成できたわけで、それは日本人にとって必ずしもデメリットではなく、むしろチャンスと捉えるべきだと思います。

 かの三島由紀夫は、「留学の目的は、朝早く目覚め、修行に専念する生活習慣を身につけるためである」といったようなことをさえ書き綴っていましたが、これはあながち間違いではありません。海外に行かずとも、大概の知識は手に入れることができます。これほどYoutubeやSNSなどが普及している今日においては、「聞いたこともない」というのはただの怠慢でしかないのではないかとさえ思います。


▶もう名門の時代は終わっている――だからこそ今すべきこと


 こう考えてみると、Kバレエスクールという独自の教育機関を育て上げてきた熊川さんが「名門」に便乗しようとしているのは残念で仕方ありません。ワールド・バレエ・デイにしてもそうですが、こういった企画の裏には、名門たる理由を失いつつある名門による焦燥が見え隠れしています。決して名門ではなかったKバレエスクールなどは、むしろ名門界隈の常識を破って新たな新機軸を打ち出すくらいでなければなりません。

 結局のところ、各国の「名門」ですら、世界中のコンクールに足を運んで生徒集めに血眼になっているくらいなのですから、熊川さんのような方には、これまで脚光を浴びてこなかったバレエ教室やバレエ学校を招待し、名門としのぎを削らせるくらいの企画を期待したいところです。

 そして言うまでもありませんが、「名門でしか教えてもらえない」ようなことがいまだに存在するとすれば、そんなものはとっととYoutubeにでも公開されるべきです。そういう時代です。

 「もう大学はオワコン」なんてことをさまざまな著名人が口にし、それが必ずしも炎上しないご時勢です。そろそろ日本バレエ界も、20世紀的な考えをアップデートしてはいかがでしょう?


 今夜は『ローレンシア』全幕の本番です。20時開演ということもあって、今朝起きてからというもの、何事にも手つかずというのか、すずろに考えごとにふけっています。




 自宅は劇場から車で20-30分ほどの、比較的閑静な住宅地のなかにあります。通りに面した緑青色の門扉を抜けて、薄汚れた建物を回り込むと、その建物の地下階へと通ずる小さな通路があり、夜になると街灯もないこの狭隘な間道を進んだ奥に、トビリシに来て以来4軒目となる現在の自宅があります。
 
 陽の射し入りにくい部屋なので、割高なこの地域にあっては安く済んでいるものの、絶えて人声のない朝は、不気味というより孤絶に近いものを感じます(別段居心地の悪い家だとかいうことではありません)。ひとたび外へと出れば、街の殷賑を眺めやるだけでも飽きることのない生活ですが、このところは毎朝「そういえば自分はトビリシで踊っているのだった」という一見でたらめな感慨を抱きます。自分がトビリシにいて、なおかつ踊っていることに何らの疑いはないはずなのに、朝な朝なこの異様な気づきをもたらすものは何なのだろう、と想いをめぐらすことも少なくありません。



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 唐突な話ですが、ベートーヴェンの第九交響曲に譬えるなら、劇場で舞台に立つ生活というのは、ひたすら第四楽章だけを繰り返し上演する生活なのではないか、と思うことがあります。そして上演前にはいつも、もしやこの人生につながる重要な音楽の存在を自分は忘れているのではないか、といぶかしみつつも、上演後には、なにかが完結したという確信を誰よりもはっきりと自覚し、その感覚的真実だけを頼りに暗夜を過ごすのです。

 ダンサーはプロもアマチュアもみな、この第四楽章が何物にも代えがたいなにかを補完する営みであることを熟知しています。そして時間が永遠にあろうとも掬いきれない非常に重要ななにかが、ほとんど何も網膜に映じないような一寸の光陰に込められていることをよく知っています。



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 いま『雨月物語』を読んでいてつくづく感じるのは、人のないところに魑魅魍魎は現れない ―― つまり幽霊の現れる物語というのは、畢竟人と人の対話にほかならず、人間が主人公にならざるをえない、ということです。
 また、時を同じくして最近読んだSusan Sontagの随筆に、次のような文言があるのを見て、ダンサーの生活には魑魅魍魎の現れない、というようなことを想いました。ともするとダンサーが表現しているのは、一人称のセリフではなく、無人称の情景描写に近いのではないでしょうか。

―― In my experience, no species of performing artists is as self-critical as a dancer. ...(中略)... each time I've congratulated a friend or acquaintance who is a dancer on a superb performance ―― and I include Baryshnikov ―― I've heard first a disconsolate litany of mistakes that were made: a beat was missed, a foot not pointed in the right way, there was a near slippage in some intricate partnering maneuver. Never mind that perhaps not only I but everyone else failed to observe these mistakes. They were made. The dancer knew. Therefore the performance was not really good. Not good enough. (Susan Sontag "Dancer and the Dance")



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 閑話はこれくらいにして、そろそろ劇場に行ってきます。

 ご無沙汰しています。トビリシは2週間前を境いに急に冷え込み、一時は3日ほどのあいだに気温が20℃近く下がったこともありました。寒暖の差が激しい季節ということもあって、体調を崩すダンサーも少なくないようです。

 先週は『フォーキン・プロ』を上演したバレエ団ですが、今週末は『ジゼル』です。初日を高野陽年とエカテリーネ・スルマワが、2日目をフィリップ・フェドゥロフとニーノ・サマダシヴィリが踊る予定になっています。自分は2日間とも、パ・ド・シス(いわゆるペザント)を踊ります。

 ここから1月末まで、バレエ団は以下のような演目を上演する予定で、異なるプロダクションを矢継ぎ早に打ち出した、なかなかタフなスケジュールになっています。

2017年


  • 10月14日(土)・15日(日)・・・『ジゼル』
  • 10月28日(土)・29日(日)・・・『ローレンシア』(初日にゲスト)
  • 12月2日(土)・3日(日)・・・『バランシン・プロ』
  • 12月13日(水)~20日(水)・・・『白鳥の湖』inイタリア
  • 12月28日(木)~30日(土)・・・『くるみ割り人形』

2018年


  • 1月4日(木)~6日(土)、10日(水)・・・『くるみ割り人形』
  • 1月26日(金)~28日(日)・・・『ロメオとジュリエット』プレミア


 また、来年には『眠れる森の美女』全幕のプレミアや、ブルノンヴィルのバレエ『シベリアからモスクワまで』の上演も控えています。

 3週間後の『ローレンシア』では、初日にボリショイ・バレエのプリンシパルであるヴラディスラフ・ラントラートフと元プリンシパル、マリア・アレクサンドロワが客演します。ラントラートフの『ローレンシア』などは、本家ボリショイ劇場でも見られない超レアな舞台になるはずです。僕個人も非常に楽しみにしています。

▲ラントラートフとアレクサンドロワによる『ドン・キホーテ』 

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 さて、今回はバレエと全く関係なさそうな話題を2つほど。

 バレエダンサーをやっているからこそ、あえてこういった小話もご覧に入れたいと思います。



 ジョージアはバレエもさながら、民族舞踊や音楽でも広く知られています。なかでも膝で着地するジャンプや、独特のハーモニーで魅せる男声合唱などをYoutubeでご覧になった方も多いかと思います。


 今日は現地の友人の紹介で、民族楽器のサラムリを購いに出かけました。

 サラムリは、基本的にはリコーダーと同じ原理で演奏される楽器です。ご覧のように、通常のソプラノ・リコーダーよりやや長く、音孔も大きめとなっています。リコーダーよりもシンプルな作りとなっているため、リコーダーのように初心者でもそれなりの音が鳴る、というわけにはいきません。
 値段は安いもので1000円、高くても3000円ほど。3000円も払えば、最高級の、味わいのある音色を追求できます。もっとも、街中で売られている土産物の笛は音すら鳴らないようなシロモノで、買うべき場所を知らないと痛い目に遭います。


 傍目には意表を突くような趣味ですが、ゲームやネット・サーフィンをしているよりは笛を吹いているほうがいいだろう、という考えでたまにピーヒャラやっています笑。トビリシ生活では、ほかに時間を割くような楽しみが日本のように多くはないので、語学の勉強なり楽器の演奏なり、なるべくジョージアを満喫するようにしています。いずれこの、「とことん打ち込むこと」と「適当に流すこと」についても書こうと思います。

 
 一方、読書は読書で全く違う方向に進んでいます。

 そもそもあまりまとまった時間がとれないので、遅々として読み進まないことが多いのですが、昨晩ようやく森鷗外の史伝小説『渋江抽斎』を再読し終わり、今日からは樋口一葉の『花ごもり』を読んでいます。
 樋口一葉は121年前に、24才の若さで亡くなった近代以降最初の女流作家です。亡くなるまでのたった6年間に、文学史上に名を連ねるような名作『たけくらべ』・『にごりえ』などを遺したことでよく知られています。
 僕自身、今シーズンで海外生活7年目、目下24才ですが、6年前に何を始め、6年間で何を達成できたかということを顧みると、一葉の成し遂げたものに対する自分の至らなさを思い知らされます。


 こんな話をすると、「樋口一葉?よくそんな古い人の小説なんて読むねえ」と言われかねないでしょうが、21才の一葉が『花ごもり』を書いた1894年というのは、『くるみ割り人形』の初演から2年、翌年に『白鳥の湖』初演を控えた時期です。
 いまなお『くるみ』や『白鳥』の音楽、そしてバレエが人口に膾炙しているのに比べ、文字で勝負している文学だけが「理解に苦しむ」と言われなければいけない、というのは、よくよく考えてみると変な話だとは思いませんか? もしかすると、僕らは樋口一葉の文学がわからないのと同じくらい、チャイコフスキーのバレエをわかっていないのかもしれないのです。


 僕はこのところ、日本でのプロジェクトなども水面下で進めています。詳しくはまだ発表できませんが、いずれは趣味のバラバラさあってこその活動ができれば、と思いながら、トビリシでのバレエ団生活を送っている次第です。


 特に日本では、「バレエダンサー」というとまるで一般人と別世界の人間のように思われがちですが、僕は一見支離滅裂なほどの分野の横断を試みることで、バレエやジョージア文化のようなものを外に紹介したり、内へ掘り下げていったりするつもりです。




 またご無沙汰してしまいました。今月から、ジョージア4年目のシーズンが始まっています。


 ジョージア国立バレエ団は、2週間後に『白鳥の湖』を上演します。今回の主要キャストは以下の通り。




 今回一番の呼び物は、やはり芸術監督であるニーナ・アナニアシヴィリ自身が数年ぶりに全幕の『白鳥の湖』に出演する、ということでしょう。実際にオデットとして踊る部分は日本公演での『白鳥の湖』抜粋と全く同じですが、いざ全幕に出演と聞くと、一団員としても身の引き締まる思いがします。

 初日のオデット/オディールを踊るのは、こちらも数年ぶりの『白鳥』になるラリ・カンデラキです。知る人ぞ知る、バレエ団随一のテクニシャンが、昨年福岡国際バレエフェスティバルを運営・開催した、プリンシパルのフランク・ファン・トンガレンと踊ります(福岡の公演についてはマージナリアに評を掲載したのでぜひご覧ください)。
 また、23日にオディールを踊るヌッツァ・チェクラシヴィリとジークフリートのフィリップ・フェドゥロフは、来月東京で予定されている牧阿佐美バレエ団の『眠れる森の美女』に客演します。こちらもお時間のある方はぜひご覧になってはいかがでしょうか。

 そして僕自身は3日目に久しぶりのロットバルトです。バレエ団内ではだいぶ悪役やヒゲ役が定着しつつありますが笑、「悪役といえばやっぱこいつだ」という評価を目指して頑張りたいと思います。

▲主要キャストを載せた『白鳥の湖』のポスター

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 さて、ブログ上に書きたいことはいろいろとあるのですが、今回は上記から打って変わって『眠れる森の美女』の話をしたいと思います。

 『眠れる森の美女』の振付家といえば、まず筆頭に上がるのはマリウス・プティパですが、現在よく知られている振付の原型は、ソ連時代にキーロフ・バレエ(現マリインスキー・バレエ)の芸術監督を務めたコンスタンティン・セルゲイエフの手に成るものです。この振付は、1964年のバレエ映画『眠れる森の美女』によって窺い知ることができます。

▲バレエ映画『眠れる森の美女』(1964)

 この映画は豪勢なキャストでも有名です。オーロラ姫をアッラ・シゾーワ、デジレ王子をユーリ・ソロヴィヨフ、カラボスをナタリア・ドゥジンスカヤ、フロリナ王女をナタリア・マカロワ、青い鳥をワレリー・パノフが踊っています。どの踊り手も、いまや伝説的存在です。



 今日、いわゆるチャイコフスキーの三大バレエが上演される際、公演のプログラムなどには「原振付:マリウス・プティパ」と記されることが多いですが、これはバレエ史を微塵も垣間見ていない証拠でもあります。はたしてプティパ版はどのようなプロダクションだったのでしょうか。



 バレエ史はあまり精しくないという方にも、プティパ版の行方を探る方途が2つ残されています。先日急逝されたセルゲイ・ヴィハーレフによる再現版(1999)、さらにはABTの常任振付家であるアレクセイ・ラトマンスキーによる再現版(2015)がそれです。

 マリインスキー・バレエのために作られたヴィハーレフ版、そしてアメリカン・バレエ・シアターのために作られたラトマンスキー版の一番の違いは、おそらく舞台美術とソリスト級のダンサーの振付にあります。というのも、ラトマンスキーはどうやら、バレエ・リュスが上演したバレエ『眠り姫』(1921)における、レオン・バクストの色彩豊かな美術を参考にしたようなのです。

 バレエ・リュスの時代にはすでに、プティパの振付が忘れられつつありました。ニジンスキーやマシーンの去ったのち、振付家不足に頭を抱えていたディアギレフは、プティパ版『眠れる森の美女』の復活上演という形で現状の問題を克服しようとしました。ロンドンで財政的な困窮状態に陥っていたバレエ・リュスの前途もかかった作品でしたが、結局3ヶ月にして打ち切りとなり、初演当時の背景や衣装は差し押さえられます。その結果、パリでは『オーロラの結婚』と題して良いとこどりのプロダクションが上演され、バクストの美術の代わりには、久しく上演の絶えていた『アルミードの館』の美術が使用されたといいます。

▲ヴィハーレフ版『眠れる森の美女』

 ヴィハーレフ版はよりプティパ版に近い美術を採用しているはずですが、マリインスキー・バレエが今日まで上演してきたセルゲイエフ版に対する配慮もあったのでしょう、ソリスト級のダンサーたちの振付は、さほどセルゲイエフ版と異なりません。このあたりの消息は、むしろラトマンスキー版の振付を視ることによって確認できるはずです。


▲ラトマンスキー版『眠れる森の美女』


 ラトマンスキーが比較対照したバレエ・リュス版『眠り』は、大変興味深いものです。これについてはジョージア国立バレエ団の先輩から話をうかがって知ったのですが、『くるみ割り人形』の中国やロシアの踊りの曲が『眠り』第3幕のディヴェルティスマンに追加されているのだそうです。調べてみると、面白い挿話がありました。

 1921年、『眠り姫』の演出にも積極的に関わっていたディアギレフは、オリジナルの再構築と同時に、なにか目新しい要素も取り入れようと画策していました。ちょうどロンドンに居合わせていたブロニスラワ・ニジンスカ(ニジンスキーの妹)が挿入曲の振付を行うに至ったのはそのためで、これらは思うに、当時バレエ・リュスの新米ダンサーであったアントン・ドーリンの記憶を頼りにラトマンスキー版で採用されたのでしょう。

 ほかにも、ディアギレフはチャイコフスキーの楽譜のなかから退屈だと思った部分を削除したり、あるいはストラヴィンスキーに編曲を依頼したりしていました。ストラヴィンスキー版『眠り』の存在など、ご存知の方は少ないかと思います。。

▲ストラヴィンスキー編曲『眠れる森の美女』


 『眠れる森の美女』に関しては初演時の話や音楽自体について書きたいこともあるので、いつの日かまとめられればいいなと思っています。もうヴィハーレフ版を見られるチャンスはなさそうですが、ABTの日本公演ではぜひラトマンスキー版『眠り』の上演を期待したいところです。



 ……ともかくも、僕はまずトビリシの『白鳥』を楽しみます笑。



 このツイート、FacebookやTwitterでかなりシェアされていますが、問題の共有方法に関して思うところがあったのでブログに書くことにしました。


▶ 何が問題とされているのか


 バレエ界のことをよくご存じでない方は、上記のツイートを読んで少し驚かれたかもしれませんが、日本のバレエ団ではしばしば、出演するダンサーが公演のチケットを数十枚買い取らされ、個々の親族知り合いに持ち分を売りさばく、という手法がよくとられています。それほどにバレエ団の興行は過酷であり、実際、月給制を実施できるようなバレエ団は日本にほとんどありません。ほとんどは公演ごとの支払いを約束するのが精一杯であり、当然ダンサーの収入は常に大きく増減することになります。

 近年、若手バレエダンサーの海外進出が騒がれるようになっていますが、その裏にはこのように、「日本のバレエ団がダンサーの生活を保障できていない」という現実があります。

 元のツイートの文脈に沿って言うならば、「ノルマで売られているチケットの数が会場の総席数のほとんどを占めているのではないか」ということが問題になりますし、その後リツイートなりFacebookでシェアされている投稿などを見ると、「ギャラよりも高額なノルマが課されている限り、ダンサーにとっては無給どころか損になりうるような就労状況というべきであり、それがまかり通っているのはいかがなものか」といった反応もあるようです。


▶ 本当に問題なのか


 僕が懸念しているのは、「何が誰にとって問題なのか」という点がきちんと整理されないままシェアやリツイートが広がっていることです。

 まずは、なぜ、を考えるべきです。なぜノルマが存在するのでしょうか?殊にお金の絡む話である以上、ノルマが無意味に存在しているはずはありません。それは言うまでもなく、ノルマなしではチケットが余り、主催者が赤字を一手に負う始末になるからです。もしもダンサーとの契約の時点で彼らにチケットを買い取ってもらえれば、少なくとも主催者側の黒字(最少額の赤字)は保証されます。ノルマはこの場合、ダンサーの雇用主である主催者にとってのメリットであり、被雇用者であるダンサーにとってはデメリットといえます。

 果たして、これは本当に問題なのでしょうか?すなわち、誰にとっての問題なのか、という見方を変えてみると、ノルマ自体は必ずしも問題でなく、むしろ必要不可欠である可能性さえある、という認識をまずは共有しなくてはなりません。

 ノルマは日本バレエ協会にとって「問題」ではありません。舞台芸術に必要とされるのは人件費のみならず、衣裳や舞台装置、照明器具の維持費などを含みます。「ろくにお金を生まず、ただ出費のかさむ行事」であるという点において、バレエは現代においても貴族的であると言わざるを得ません。欧米のバレエ団と比較すると日本のノルマシステムが「ありえない」のと同様、経済をより効率的に回すことのできるほかの産業と比較すると、バレエは「ありえない」職種なのです。

 さらに言うなら、今回の件はダンサーにとっても必ずしも問題ではありません。問題とされているノルマと給料の表は日本バレエ協会がオーディションの要項として載せたものであり、すでに雇用関係を結んでいるダンサーに押しつけられたアイデアではありません。気に入らないダンサーは応募しなければいいのであり、また採用されたいと思うのであれば、雇用主の条件を呑むことは必須でしょう。

 厳しいことを言うと、これが仮にとある東京のバレエ団の現状であったとしても、ノルマ自体が問題と見なされるには難があります。なぜなら、そもそも東京で暮らすにはお金が足りないというのは、物価の要求するところであり、バレエ団の責任ではないからです。僕自身は、トビリシという辺鄙な町で、ささやかながら月給制の労働契約を結ぶことができていますが、もしもこの給料で1ヶ月東京に住めるか、と問われれば、正直なところ無理だと答えるでしょう。逆に、日本のバレエ団での公演ごとの給料も、トビリシで生活するには十分な額なのかもしれないのです。


▶ 何が本当に問題なのか


 何が本当に問題なのかは、誰にとって問題なのか、という視座の設定も含め、非常に難しい質問です。「理想を言えば…」という観点からすれば、たしかにノルマのある雇用形態は問題ですが、日本バレエ協会なりなんらかのバレエ団が、集客数の望めない現状においてノルマ制を放棄することは、ダンサーにとって良心的であるとはいえ、非常にリスクが高く、コミュニティそのものの継続を困難にするだけでしょう。

 僕の見る限り、問題の一つはこのような雇用形態が数十年にわたって改善されなかったことだと思います。たとえば数十年前は、きっとこんな形でノルマが始まったのでしょう――バレエ団は立ち上げたけれども、お金がない。それでもなんとかして公演を実現したい、私たちは舞台で踊りたいんだ、という団員全員の気持ちがただただ強く、みんながチケットを協力して売り払うことで、やっとこさ劇場の予約にまでこぎつけた――こういった話はなにもバレエだけでなく、ビジネスの創業物語にはよくあるものです。

 ただビジネスの創業物語と違うのは、ここを起点に次のビジネスモデルへと進展する動きが見られなかったことです。つまり、長期的には絶対維持できないような運営を多くのバレエ団が続けてきたのであり、ノルマ制はそのシワ寄せなのです。東京バレエ団とNBS、あるいはKバレエカンパニーとTBSのような経営システムはまれで、ほとんどのバレエ団は個人経営であり、それもスポンサーのない状態を逸することができていません。一つにはスポンサーもオーディエンスも集められないビジネスを続けていたということ(すなわち現状のようなバレエ公演は、その中身がいかに深淵な美しい芸術であろうとも、一般に商品価値を見出されていないということ)、一方ではある国で評価されている芸術が(日本に限らず)他国にて同じ地平で評価されるとは限らないというようなことが言えるだろうと思います。はたまたバレエ団側が、客が集まっても黒字化しないような価格でチケットを売らざるをえないような、結果からすれば、ニーズの全くない公演のラインナップを組んできたということさえありうるかもしれません。そして、このような問題が明らかになった際、すぐさま問題解決に取り組んでこなかった、という事態があったとすれば、それは本当に問題であると言えるでしょう。


▶ 目的から問題へ、問題から解決へ


 今日、SNSは多大な影響力を有しているので、シェアやリツイートが問題拡散の方法として非常に有効なのは間違いありません。しかし、問題の措定さえままならない状態で情報だけが拡散しても、もやもやとした腑に落ちない気持ち悪さだけが各々に共有されるばかりで、問題の解決には繋がりません。もし仮に、スポンサーが全チケットを買い上げ、ダンサーのノルマがゼロになったら問題は解決するでしょうか?そんなことでは、ノルマがあろうとなかろうと、新たなオーディエンスの獲得には繋がらないでしょう。ダンサーやバレエ協会双方の言い分を視野に入れたうえで、「バレエを見たことがない人たちに足を運んでほしい」といった目的が生まれれば、おのずと問題は「ノルマをダンサーに課すことで、観客のほとんどが出演者の個人的な知り合いになってしまう」というふうに設定されるはずです。こういった地に足の着いた議論が、もっと増えていけばと切に願います。



 長らくご無沙汰していました。

 前回の投稿が5月23日なので、ざっと2ヶ月ほどが経っているのですが、ここまでとても2ヶ月とは思えないほどいろんなことがありました。

 まず、2016/17シーズンが7月頭に終わりました。最後の1~2週間は怒涛のスケジュールで、『ローレンシア』の後、『白鳥の湖』や『ドン・キホーテ』、そしてガラ公演などの練習に追われる一方、家の引っ越しも余儀なくされ、ほぼ休みなく働いていました。
『ローレンシア』

 シーズン最終公演後の夜に引っ越しを終えると、そのまま次の日の朝にイギリスへ向かいました。1週間かけて、アイルランドやスコットランドのほうへも足を運び、シーズン末にボロボロになった身体と精神を癒して、トビリシへ戻りました。この旅行中の写真は、すでにFacebookに投稿してあります。
スコットランドのエディンバラ

 トビリシでは2連泊し、新宅の掃除などの傍ら、バレエ団の同僚と旅行会社が企画しているワークショップのミーティングや、劇場でのバレエクラスに参加。その後、東京へ帰ってきました。

 東京に帰ってからも目まぐるしい毎日が続いています。8月6日に地元バレエスタジオの発表会があるので、夜は千葉県で稽古し、空いた時間を使ってなんとか人に会うなどしています。本当は母校の水泳部合宿のお手伝い等、時間さえあればやりたいことはいろいろとあるのですが、今はバレエで手一杯といったところでしょうか。移動時間の長さや活動時間帯の遅さが災いして、シーズン中よりも過酷な1日を過ごしている、といっても過言ではありません笑。

* * *

さて、もう午前2時前なので笑、今回はちょっとした報告をして終わりにします。

 まず、このブログですが、冬までに別のウェブサイトを立ち上げて、そちらに移動しようと思います。新しいウェブサイトのほうは、ブログも兼ねたポートフォリオのようなものにしようと思っています。つまり、ダンサー、物書き、旅人etc.としての自分を、ブログに限らず写真等いろいろな形でご紹介するつもりです。乞うご期待ください。

 それと、近日中に、バレエ批評ならぬバレエ随筆を連載しようかと考えています。そもそも日本でよく読まれるバレエ批評は、大きく分けて2種類あります。1つは、いわゆる職業批評家による文章、もう1つは一般の方によるネット上での感想文の類いです。前者に関しては、バレエ団による裏・プロモーションと見まごうような批評文が多く存在するのをずっと遺憾に思っていました。そして後者については、プロの踊り手からすると視野の狭い独断的な意見になってしまったり、言葉足らずの雑感になりがちなのかな、という読後感を否めずにいました。
 僕はマージナリアで長いこと文章を書いてきましたし、プロのバレエダンサー自身が声を上げて発言すべきことがなにかしらあるだろう、と思っています。ダンサーとしての視点をお伝えすることも1つの目的ですが、1つの公演を見て、字数内に情報を凝縮せざるを得ない新聞の批評欄とは逆に、1つの公演からどれだけ多くのものを読み取って言葉にし、あるいは惜しくも欠けているものを指摘できるか。そういったバレエの見方についても、できるだけ論理的に、かつその場で感じた印象に忠実な書き方で、お伝えできればと思います。無論、みなさんからの異議や反駁もぜひお聞きしたい、という心づもりでいます。


 まずはこんなところでしょうか。このブログの更新頻度も上げていこうと思っていますので、気に入った記事があればお気軽にシェアなどよろしくお願いします!



 お久しぶりです。

 マージナリアからも遥かに離れ、怒涛のように過ぎ去った日本公演からも時間が経ち、気づいてみれば今シーズンも残り1ヶ月強になりました。

 ジョージア語の勉強を再開したり、解剖学のみならず生理学の記事を読んだりと、知的興味はそこかしこを彷徨っています。

 バレエ以外のあらゆるアウトプットから身を引いてみると、一瞬のささいな感情や記憶が生活のなかにつぎつぎと吞みこまれていくのがわかります。小説のネタにでもなりそうな突発的な出来事に際しても口をつぐんでいると、めくるページのない絵巻物をただただ横へ横へとたぐり続けているような慷慨に襲われます。

 そして言葉――特に日本語もまた、記述論についての拙文以来、深く濁った湖底に沈んでしまった枯れ葉のように、届きそうで届かない存在へと姿を変えていくのがわかります。


 さて、ジョージア国立バレエ団では、6月に初演する改訂版『ローレンシア』全幕のリハーサルが続けられています。『ローレンシア』は、ジョージアの誇る20世紀の踊り手ヴァフタング・チャブキアーニ(1910-92)の代表作として知られています。以前マージナリアなどでもご紹介した『ゴルダ』もまた彼の手に成る作品です。多くの教師陣がチャブキアーニ本人と踊り、指導されてきただけあって、ダンサーには細かなディティールを伴った指摘が矢継ぎ早に飛んできています。

▲『ローレンシア』の広告


 今月の初めにはエストニア・フィンランドへのツアーを行うなど、精力的な海外公演を敢行してきたバレエ団の2016/2017シーズンも、7月初旬のガラ公演をもって幕を閉じます。バレエ団のプリンシパル・ダンサーなどは来日公演でたしかな感触を掴んだとみえ、日本のバレエ団へのゲスト出演が決まるなどしているようです。

 自分自身としては、昨年9月に見定めたように、「自分に投資する」シーズンになったように思います。必ずしも結果の伴うシーズンではありませんでしたが、来たるべき春を見据えて雪解けを待つ新芽の気分といったところでしょうか。積もり積もった雪の重みはこれまで以上に堪えるものでしたが、以前は気づきすらしなかった些細な椿事にも心づくようになったと思います。向こう1年は見龍在田となるのか、それとも『豊饒の海』の大団円のような、ぽっかりとした空虚感が自分を待ち構えているのか、僕にはわかりませんが、いずれにしてもきっと「それも心々ですさかい」なのでしょう。



 ご無沙汰しています。東京はそろそろ桜の咲く時期ですね。

 Facebookでかまびすしく宣伝した通り、先週はジョージア国立バレエ団の日本公演に参加していました。

来日公演はおろか、バレエダンサーになれるとさえ思っていなかった高校生の頃、西日暮里から上野まで足繁く通っていたのを思い出します。東京文化会館と言えば、憧れの場所であり、落ち込む場所でした笑。末席ながらこの舞台に立てたことはダンサー冥利に尽きます。

 なんてことを書きましたが、プロのダンサーになった今でもやはり、東京文化会館は「落ち込む場所」でした笑。



 なにも公演の出来が悪かったとかではありません。むしろ僕が入団して以来、このバレエ団がここまで素晴らしい舞台を作り上げたのはほぼ初めてだったのではないかとさえ思います。それほどにみんなの思い入れも強い公演だったので、多くのダンサーにとっては忘れられない至福の経験になっただろうと思っています。

 そういった公演だったからこそ今回は、自分が何を踊ってきたか、入団以来自分が何を成し遂げられたか、ということを振り返る絶好のチャンスでもありました。東京滞在中は、わざわざ足を運んでくださったみなさんからの温かい声援を受けながら、「自分は本当にやりたいことに向かって進んでいるのか」ということを真摯に考える日々で、必ずしも手放しで日本を娯しむ、という気分にはなれませんでした^^;

 日本に帰ってくると痛感することですが、ダンサーを囲う就労環境は日本よりもジョージアのほうが断然整備されているものの、生活環境や教育水準といった至極当たり前のことでは日本の良さが目につきます。とりわけモノの有無よりも、ヒトとのコミュニケーションについてはそう思わざるを得ません(停電や断水がしょっちゅう起こることと、組織内のaccountabilityが破綻していることのどちらが大変だと思いますか?)。僕はなにも日本が一番だとは思いませんが、普段声も上げずに耐え忍んできたようなことの「異常さ」を再認識してしまうと、やんぬるかな、元のジョージア生活はいくぶん悲愴的に感じられるものです。

 来日前からそういった落差をなんとなく予期していたので、そういった意味でも今回の公演は複雑な気持ちで迎えた、というのが正直なところです。それでもできる限り「今」を楽しんだつもりですが!



 閑話休題、ともかく来日前には例の記述論の文章も書き終え、東京では念願のマージナリア第7号特別号をようやく手に入れました。帰りの飛行機であらためて第7号を読み返してみましたが、思っていたよりもなかなか面白かったです笑。特に巻頭の対談企画が第7号全体のテーマ「遊び」を多角的に束ねていたのが良かったように思います。ダンスについての発言に関してはいくらか思うこともありましたが、それは後日。

 また、最近は「芸術的artistic」の原点に立ち返ろうと思い、哲学などの専門的な文章から離れ、文学作品を読むようにしています。あとは夕方にリコーダーを吹いてます笑。本当はピアノを弾きたいんですが、ピアノがないので・・・


 そんなこんなでお祭りムードからは距離を置き、自分自身を見直す、そういう時期を迎えています。僕はあらゆるバレエダンサーを世間的な先入観でひとくくりにして語ってしまう、そういう無配慮で雑駁なnarrativeを好みません。だからこそ、言うべきことは自分で言う、そんなブログを続けていきます。


 かくかくしかじかの頑固な主義で、バレエ団がアップしたこの集合写真に僕は映っていません。まあ、魔が差したんだなこいつ、とか、ノリ悪いな~、とか言ってもらっても構いませんが、この写真は僕にとって「3年間で成し遂げられなかったこと」の墓標です。



 ―― 明日からは子供向けバレエの4公演、来週末は『ゴルダ』です。


 昨日ようやく今シーズン最後の『くるみ割り人形』が終わりました。
中国の踊り

 計13回の公演でしたが、ほぼ2ヶ月にわたって長々とゲネ(general rehearsal)と公演を繰り返してきたので、もうこりごりです笑。

 バレエ団は2月初旬にキリアン作品などを含むコンテンポラリーダンスの舞台、そして中旬にはバランシン・プログラムを予定しています。いずれも自分の出る作品はほとんどありませんが、代役控えでスタジオに詰めている時間が長く、なかなか家に帰れない日々が続いています笑。

 家に帰る時間が遅くなるのはともかく、昼食をとる時間もないスケジュールはどうにかしてほしいものですが・・・

* * *

さて、先日ついに新論説集「マージナリア」第7号が出版されました。僕も現物はまだ受け取っていないのですが、これまでとは全く異なるマージナリアを作れたと思います。勝手ながら友人の撮ってくれた写真をシェアします^^;

第7号表紙

対談「遊び/物語/プロセス」


"To play" in your language

Play is a synonym of Pray

無限の余白注


 今回は「遊び」をテーマに設定していたので、アマながら編集部一同できるだけぶっ飛んだ紙面づくりを目指しました。

 冊子を開くと無意味に現れるアナグラム、まるで気の抜けた「へのへの目次」、そうかと思えばタルムード風なページや和本のような紙面の『論語註』・・・キリがないほどのランダム仕様ですw。
 そうかと思えば「遊び」という概念について取り組んだマジメこの上ない対談や国際交流企画もあり、読みごたえは十分だと思います。無論、軽い気持ちで読める戯曲のページ「Play your discipline.」などもあり、バラエティの広さも健在です。
 
 そして表紙と裏表紙は藝大で同期だった作家・室井悠輔君に(いろいろ無理を言って)作ってもらいました。特別号にも室井君の作品が掲載されています。第7号・特別号のどちらも通販で買えるようになったので、ぜひお気軽に注文してみてください。

通販サイト: https://marginaliasp.thebase.in/

* * *

 ところで、マージナリアにあてがわれていた時間は今どう使われているのか、というと

 大概リハ―サルのために消滅しています笑。。。

 それでも週に1度の休日や平日夜のわずかな時間を利用して取り組んでいることが3つあります。

 「英語」・「解剖学」・「記述論精読」がその3つです。

 英語はとにかく毎日読んだり聴いたりの繰り返しです。徒歩20分ほどのジョークのような通勤時間に英米のニュースを聴き、机に向かう時間があればジャンルを問わず様々な記事の要約・メモなどを英語で取るようにしています。ジョージア(グルジア)語やロシア語の勉強をしたい気持ちも山々ですが、当面は高校~大学の学部1、2年の扱うような話題全てを英語で読み通すことが目標です。

 解剖学は言わずもがな、ダンサーとして必要な知識です。最近愛用しているのがこちらのアプリ「Muscle premium」です。
 このアプリ、本を1冊買うのと同じ値段しますが、骨や筋肉の3次元的なイメージを掴むのに大変役立っています。実際に体を動かすアスリートやダンサーほど、有効に活用できるツールなのではないでしょうか。
 
 3つめの記述論というのは、高校時代お世話になった語学教室の恩師が20年以上前に書かれたテクスト(それ自体/そのよすがとなる理論)のことです。大学受験のことなど全く頭になかった当時の自分^^;は、英語をはじめ、ラテン語や江戸思想史など高等教育の範疇を超えた授業を週2回ほど受けに行っていました。高校時代からマージナリアの活動を全面的に支援していただいており、この語学教室なくしてマージナリアは生まれなかったと言っても過言ではありません。
記述論のテクスト

 その語学教室の創立20周年を記念した文集のために、恐れ多くも「記述論」に関する文章を書くことにしたので、ここしばらくは記述論精読に時間を費や(そうと)している、というわけです。うまく書きおおせるかどうかわかりませんが、いずれこちらのブログにも文章を転載できればと思います。

 他にもちょいちょいとやっていることはありますが、大方バレエダンサー鷲見雄馬の生活はこんな調子です。これがバレエダンサーの典型的な生活と言えるのかは、はなはだ疑問ですが・・・笑




 新年あけましておめでとうございます。

 今年はトビリシで新年を迎えました。

 粛々とした除夜の鐘の音の代わりに、かまびすしさの限りを尽くした花火の爆ぜる轟音に包まれながら、いつしかやってきた2017年を祝っています。



 よく年をとると時間が加速度的に進んでいく、などと言われますが、

 ここ数年、とりわけここ数週間は時間が亀のごとく遅々として進んでくれません笑。

 オペラ劇場がリニューアルオープンしたのも2016年の2月のことで、また1年と経っておらず、それからというもの、時間という時間が僕の足元にへばりついているようです笑。

 先日の投稿からの1週間ですら、数ヶ月のように感じる牛歩の日々でした。スペインツアーの疲労とトビリシの寒気が祟ったのか、高熱で寝込む団員も多く、本番初日は急遽ボリショイバレエ団のプリンシパル、マリア・アレクサンドロワさんを主役に迎えて上演しました。アレクサンドロワさんのprofessionalismに圧倒されつつ1公演4回の衣装替えをなんとかこなし、大晦日の昨日は芸術監督じきじきのクラスレッスンを受けて、年内最後の仕事を終えました。

『ドン・キホーテ』終演後

 そして元日と明日の2連休が済んだら、3日からまた仕事です。

 普段は週1の休みしかもらっていないので、2連休というだけでだいぶ違和感があります。

 1月は1週目から『くるみ割り人形』の舞台があり、ほかにも新作のリハーサルなどがぎっしり詰まっているようです。

 また、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、3月には芸術監督アナニアシヴィリさんのガラ公演が東京で予定されています。自分を含め、バレエ団のどのダンサーが参加するかは神のみぞ知る、という塩梅なのですが、大半のチケットはすでに売り切れてしまっているという噂を耳にしたので、一応予告しておきます。普段バレエを目にする機会のないみなさんは、ぜひ!


 ・・・とこうするうちに元日も終わろうとしています。今日はマージナリア第7号の編集にやっとケリがついたところで店じまいです。明日はマージナリアもバレエもない休日ということで、ひさかたぶりに自宅にも劇場にも籠らない、正月らしい一日が過ごせそうです。


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