このたび、2月末にバレエ団を辞め、ジョージアを去って、7年ぶりに日本へ帰ることにしました。

 なぜ新年が明けてからブログ【ゆく年】編をアップし、今になって【くる年】編をアップしたのかということも兼ねて、今回の決断にいたるまでの経緯をお話ししたいと思います。


▶やめるのは続けることより簡単か?

「やめるのは簡単だよ。続けるのは大変だけど。」

 お稽古事なんかでは、よくそう言いますよね。毎日コツコツ続けることは実際大変ですし、三日坊主なんてのは誰にでもあることです。

 ただ案外、続けるほうが楽なこともあります

 いまやっていることを続ける、なにも考えなくとも続けられる、という立場自体は、「もう続けられない…」という、選択肢のない状況(について考えること)を回避できる特権でもあるからです。現に、怪我をしているときより、大変でも目まぐるしく踊り続けられるときのほうが気が楽だ、というダンサーは決して少なくありません。

 また、普通「やめることを選択する」というのは、選択肢のない状況におけるやむをえない判断、目標を達成できなかった失敗のあかしと見なされがちです。

 怪我をした、年齢の限界、モチベーションがなくなった、などなど・・・

 ですがはたして、怪我をしていない、年齢の若い、モチベーションのありあまったダンサーにとって、「やめること」は無意味な、検討の価値のない選択肢でしょうか?

 僕はそうは思いません。自分にとって重大な意味をもつ道を自分自身の意思で選んだ場合、その道を(あきらめるのではなく)思い切ることほど意味のあるものはないと思います。


▶上手より好きを選んだ17歳

その昔、僕はK高校という巷では名のある進学校に通っていました。それこそ生徒の進路についてうるさく言う学校では全くありませんでしたが、僕自身はある種のプレッシャーを人一倍背負ってしまうタイプで、高3の夏には有名大学進学とバレエのどちらを選ぶべきか、めちゃめちゃ悩んでいました。

 なにも前途が有望かどうか、という点で悩んでいたわけではありません。

 「芸術は人に『ああ、もう今日死んでも構やしない』とさえ思わせるような力を持っている。たとい自分の能力をたよりに大学へ行って、平凡ながら裕福な人生を送れたとしても、僕は同じような感情の激流に出会うことがあるだろうか。報われないかもしれない10年の僥倖と、国家によって約束された50年の幸福の、どちらかを選ばなければいけないとしたら、僕はどちらに人生を賭けるだろう?」―― 僕はそういうことを考える夢想家でした。

 文章を書くのが好きだったので、批評家のような仕事を考えたこともあります。ただ、音楽を聴いたときの人間的な感動を表現するのではなく、観たものを片っ端からさばさばとメスで解剖したがる批評的態度に対しては、拭いきれない違和感がありました。そうして、芸術はやはり作り手/感じ手の世界だ、能力に恵まれなくとも僕はアーティストでありたい、と腹をくくった矢先、嘘のような海外留学のオファーが舞い込んだのでした。

 それ以降、もうプレッシャー云々で人生を決めるのはやめました。自分の人生を自分で決める、雄弁な・生意気な語り手がそこに現れました。


▶「筋の通った人生」なんて息苦しい

K高校からの勉学の道を思い切り、その後短期間ながら通ったG大も思い切った僕にとって、次の悩みは「バレエダンサーらしく生きること」でした。

 当たり前ですが、生徒の半数がT大に行くK高とバレエ界とでは、世界がまったく異なります。G大に入学した際もそう思いましたが、とりわけポルトガルにいた頃の「場違い感」は半端じゃありませんでした。K高時代の友人をたよりに続けていたマージナリアの活動も、ここじゃあ到底受け入れられそうにないなと感じ、まるで二つの人格を生き分けなければいけないかのような現実に愕然としていたのをよく覚えています。そうしたギャップを痛感していたからこそ、バレエ界にいながら「K高卒」というレッテルで評価されるのが嫌でたまりませんでした。それはダンサーに対するまっとうな評価ではないからです。

 そんな苦労のさなか、オランダのバレエ学校の友達が何人もマージナリアに興味を持ってくれたのは嬉しい誤算でした。「ああ、バレエダンサーがしかめっ面して文章書いてもいいんじゃんか」、バレエダンサーをやっていながら、そう思えるようになったことで、どれだけ気が楽になったことかわかりません。

 とかく考えてみると、筋の通った人生、という常套句は少し息苦しい気がします。「K高卒らしい言動」「バレエダンサーらしい振る舞い」「日本人らしい気づかい」に沿って生きることは、時に本当の自分をいつわり騙すことになりかねません。海外の地でバレエに挑戦していると、生まれつき持ちあわせていないものを要求されることや、生活上でのいわゆる差別に出くわすことも少なくありませんが、僕は僕でいよう、褒められようが貶されようが、僕が僕でないことほど愚かしいこともあるまい、そう思うようになりました。

 そして同時に、僕は誰であってもいい、そう思うに至りました。バレエダンサーでも、マージナリアの創始者でも、トビリシに住んでいる日本人でも、学業を捨てたおバカさんでも、どれでもいいし、どれでなくてもいいんです。その意味では、「思想的な一貫性」というインテリの精神的防護服にしたって、自分の首を絞めかねないと思います。考えること話すことが、ある時はYesであったり、ある時はNoであったりしたとして、それが一概に矛盾であるとは言えないのではないでしょうか。

▶️思い切って選んだからこそ、思い切って捨てる価値がある

これまでの自分の努力が無駄になることを恐れて身動きがとれなくなるのを避け、昔の自分の言動につじつまを合わせるような無理もせず、自分自身に正直に生きよう、そう思ったとき、僕が次に取るべき選択はおのずと明らかでした。

 それは自分が思い切って選んだ道を、今度は思い切って捨ててみることです。

 この道を諦めたのではありません。この道を選んだのが自分だったからこそ、捨てることにはポジティブな意味があります。覚悟を決めて選んだものに対して、なにか不可抗力的な選択を迫られた、あるいは、思い切るまでもなく捨てざるをえないシチュエーションが本人に自覚されたのであれば、それは「諦める」でしょうが、そのような不可抗力がなくとも捨てる決断をすることこそが、僕の意味する「思い切る」ことです。

 僕は3年以上、トビリシで踊ってきました。留学時代をふくめて7年間の海外生活に終止符を打つことになりますが、これはひとえに、「バレエを踊ることとマージナリアを作ることの両方は本質的にたがわないものとして成り立ちうる」という直観を得たからです。ただ両者の本質を外科医のように縫合して、それで自分の口を糊するためには、どんな言い訳をも己に許さない、崖っぷちの自由が必要だと自覚したわけです。

 「でもバレエ団を辞めるんなら、バレエをあきらめたと同じことじゃないの?」という声はあると思います。無論、1年以上も前からそのことは何度も自問しました笑。ですが、バレエ団にいたとしても、なあなあでバレエを続けている人は多いものです。僕ならこう問いたい。ダンサーのバレエにかける情熱は、その人のキャリアの長さやレパートリーの多さで測れるものですか?と。

 僕の場合、バレエが好きで仕方ないからこそ、いまのバレエ団を去ることにしたと言っても過言ではありません。ダンサーの鷲見雄馬が今後なにを目指していくのかは、また追い追い話すことにします。僕にとっての「くる年」は、かくてこのブログの題名でもあるGeorgiaとMarginaliaをふたつながら手放すことで、ようよう始まるものと思われます。


* * *


僕が最後に見たリスボン。愁いは繋がれた・・・
じつは1、2年前に、「バレエもマージナリアも今年が最後という覚悟で臨む」ということをちらっと周囲に漏らしたことがあります。そこから考えに考えて筋を通したというよりも、過去をすべてlet it goする心意気が、今回の決断につながったと言えます。なにも、手に入れたものは手放せ、ということではなく、手に入れたからといって手放しちゃいけないわけじゃないんだよ、というところがミソです。

 言われれば当たり前のことのように聞こえますが、知らず知らずのうちに溢れんばかりになっているココロの涙=ストレスすらも、自家薬籠中の物として理解できるかどうか。これが、7年間の海外生活を通して僕の学んだことです。

 ずいぶんご無沙汰しています。まずは、あけましておめでとうございます。

 11月以来のブログですが、近況報告は10月以来途絶えていたみたいなので、ツイッターでジョージア(旧グルジア)バレエ団の動向を整理してみようと思います。

  昨年10月末には、マリア・アレクサンドロワ(元モスクワ・ボリショイバレエ団プリンシパル)とヴラディスラフ・ラントラートフ(同バレエ団プリンシパル)のお2人をゲストに迎え、チャブキアーニ原振付・アナニアシヴィリ改訂版『ローレンシア』全幕を上演しました。旧ソビエト圏では非常に有名なバレエでありながら、現在ミハイロフスキー劇場やジョージアでしか上演されていない演目ということもあり、アレクサンドロワさん・ラントラートフさんともども、この舞台にかける思いはひとかたでなく、熱のこもった演技には惚れ惚れとしました。

 さるにても特筆すべきなのは、第2キャストとして主役を踊ったラリ・カンデラキ高野陽年のペアでしょう。『ローレンシア』はカンデラキが十年来得意としてきた十八番でしたが、今回の舞台をもって本作品とは袂を分かつことが公演前に発表されていました。御年45歳かつキャリア最後のローレンシアとはとても信じられない、目も眩むような鮮やかな技術に、団員一同あらためて舌を巻きました。

 また、カンデラキのパートナーとしてフロンドーソを演じた陽年君が、ラントラートフに引けを取らない豪快なテクニックで観客を魅了したのも記憶に新しいところです。
 
  続く11月には、ミハイル・ラヴロフスキーがバレエ団を訪れ、1月末の舞台ラヴロフスキー版『ロミオとジュリエット』の指導にあたりました。

 『ロミオとジュリエット』という作品は、プロコフィエフが作曲したことからも容易に推測できる通り、バレエ史のなかでは比較的新しい作品で、ミハイル・ラヴロフスキーの父レオニード・ラヴロフスキーの演出・振付で本作がバレエ界に生を享けたのは、1940年のことでした。

 バレエ史的に興味深いのは、プティパやイワノフといった振付家の名のもとで鑑賞される作品がほぼ原初の形を喪失しているのに対し、このラヴロフスキー版『ロミオとジュリエット』は、細部に至るまでの解釈が継承されている数少ない古典作品であることです(この振付に対して同時代的なcomparative criticismを試みるなら、音楽史における晩年のリヒャルト・シュトラウス、日本文学史における後期の永井荷風といった趣があるといえるかもしれません)。特にその後、同名同音楽のバレエが多く登場したという事実を鑑みると、ラヴロフスキー版のもつ歴史的意義に関しては他言を俟たないだろうと思います。いまから本番が楽しみです。

  そして先月は、イタリア・サルディーニャ島のカリャリという町で『白鳥の湖』を上演していました。各国のバレエ団が訪れている劇場とのことで、小さい町ながら公演に対する宣伝には力が入っており、舞台は毎夜翳ることのない暖かな賑やかさに包まれていました。

 幸運にも今回、自分はロットバルトを3度上演するチャンスをいただき、メイクから演技や技術的な部分に至るまで、予期していた以上にいろいろと試してみることができました。やや退屈な感も否めないツアーでしたが、振り返ってみるとダンサーとしては昨年もっとも充実した時間だったのではないかと思います。


去年も今年も中国。
そうこうするうちに、12月末からは『くるみ割り人形』が始まりました。ジョージア正教ではクリスマスが1月7日なので、今週からもまだ4公演ほどが残っています。ここからは怒涛のようにガラ公演や『ロミオとジュリエット』、さらなるツアーなどが立て続けに入っており、団員はみな、今つかの間の安息をむさぼっているところです。



 さて、次回ブログでは一身上の目論みについて詳しく発表するつもりなのですが、今回はひとまず以下のイベントについて宣伝させてください。


  同じバレエ団のプリンシパルであるフランク・ファン・トンガレンと、ソリストの武藤万知ちゃんが福岡で企画した講習会のチラシを、今回僕が作らせてもらいました。なつかしのマージナリアでさんざんお世話になったIndesignを活用したほか、Illustratorでスタジオの地図を作ったり、FIBF PROという新企画の提案にも関わったりするなど、いろいろとお手伝いしています。

 じつは目下、HTMLやCSS、JavaScriptなども勉強しており、チラシ作成からウェブページ運用まで、一人で回せるようになるのを目指しています。もしも「ウチのバレエ教室のホームページ変えてほしいな」とか「公演のチラシ作ってよ」という方いらっしゃいましたら、いつでもご相談くださいね。

 無論、単にチラシやウェブを作ってもらいたいだけという方でしたら、プロのデザイナーさんにお願いすればいいかと思いますが、これまでのブログ同様、単にチラシを作るだけでなく、どのような問題意識で企画や運営を行いたいのか、利用客との関係がウィンウィンになるようなサービスを作るにはどうすべきか、海外にも負けない日本のバレエ界の強みは何なのか、といった多角的な視点からじっくり腰を据えて取り組んでほしい、という方はぜひお声がけください。


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