長崎で遊んできました。















 この旅行記は、マージナリア第7号に掲載するつもりです。


 ちなみに、マージナリア第7号のテーマは、「遊ぶ」。


 乞うご期待ください。


わずか1公演を残すばかりとなった今シーズンのバレエ団。先々週に『ゴルダ』と『火の鳥』の公演を終えて、この月曜にはトビリシで開かれているOSCE(欧州安全保障機構)の年次総会のために、グルジア音楽を用いたユーリ・ポソホフの作品『サガロベリ』抜粋を上演しました。

これはバレエ団だけでなく、オペラ歌手、ピアニスト、チェリストらも参加した公演で、なんといってもグルジア舞踊団スーキシヴィリSukhishviliを舞台袖から見られたのが一番の収穫でした。

▲スーキシヴィリによるツドの踊り


スーキシヴィリは英語ではGeorgian National Balletとなっており、対するバレエ団はState Ballet of Georgia。なのにバレエ団の日本公演ではこれまで「グルジア国立バレエ団(ジョージア国立バレエ団)」という名称を使ってきているので、よくこの2つは混同されますが、全くの別物です。いわばGeorgian National Balletの「national」は「民族(舞踊)」のほうの意味で、僕たちは「国立(オペラ・バレエ劇場)」。よくジョージアの国立バレエ団はあんなクレイジーな民族舞踊もやるのか!なんて言われますが、そちらは専門外です^^;

そんなバレエ団ですが、グルジア舞踊との縁が深い作品もいくつかあります。上記の『サガロベリ』然り、今年復刻上演されたヴァフタング・チャブキアーニの『ゴルダ』もその1つです。これまでに何度も書いている通り、『ゴルダ』については新論説集『マージナリア』第6号のほうで詳しく紹介しています。

その本文中の1箇所をこの場で訂正させてください!僕はワーグナーの著書に『総合芸術論』というものがあるかのように書いていましたが、これは記憶違いで、総合芸術論は彼の論文『未来の芸術作品』などに散見される説です。高校時代に読んだ本だったので、ちょっとあやふやでした。。。


延びに延びたマージナリアの講評へ移る前に、もう1つ宣伝を。たびたびFacebookでシェアなどしていますが、この夏、福岡にて「福岡国際バレエフェスティバル」というイベントがあります。こちらもマージナリアに広告を載せましたが、この一大イベントを主催しているのは一般の企業などではなく、僕と同じジョージア国立バレエ団の同僚。陰ながら僕も写真や動画の編集、翻訳等でお手伝いをさせていただいてます。何から何まですべてダンサーの手で作り上げられており、しかも国内外の著名バレエカンパニーを巻き込む前代未聞の規模になっていますので、九州にお住まいの方、また九州に知り合いがいらっしゃるという方は、ぜひ本公演を周知していただけると幸いです。Facebookはもちろん、TwitterやInstagramもありますので、お気軽にフォローしてみてください!

▲福岡国際バレエフェスティバルの紹介動画

*   *   *

さて、それではマージナリア第6号の講評もちゃちゃっといきます笑。今回はp.22の「短評」とp.85の「《Tsunami A.D.365》への評」。どちらも音楽について扱った文章です。短評全体についてはすでに冊子内で評を書いたので、今回はTsunamiの文章と合わせ、個々の記事についてあえて触れなかったことなど指摘してみます。

今回の短評のお題は、こうでした。

  • ある楽曲を聴いて、それを文章中で表現してください。ただし文章の中で筆者および想定される読者の聴覚に依存する表現を用いてはいけません。

このお題から読みとれる問題はおもに2つです。

  1. 音楽を文章で「表現」するとは?
  2. 聴覚に依存する表現なしで、どうやって音楽を表現するか?

結論から言うと、答えは無数に存在します。正解はありません。このお題だと、楽譜の解説をすることはできないわけですから、提題者の大川内くんも言っている通り、「楽曲を表現するときに二番目、三番目に主要な方向は何なのか(★)」ということが重要になってきます。

では実際に参加者は何を重要だと思ったのでしょうか?ずばり★に着目することで、各々の文章の見え方は瞭然変わってきます。
シューマンのヴァイオリンソナタについて、石丸さんはこう記しています。

  • 曲の終わりのA音に辿り着いた時、私の頭によぎるのは、ただ「生きててよかった」という言葉である。誰のものかもわからない言葉。別に何か確かなものを得られるわけではない。それでも、これを聴けて良かった、そう思ってしまう。

音楽を聴くという体験そのものに重点を置いているこの文章は、「音楽を文章で表現する」という問題については明確な態度を表明していないものの、音楽について一番重要なことを見失ってはいません。聴覚に依存する表現を使うにせよ、使わないにせよ、音楽を聴いたときの感動というのは、ずばりブレないんです。

「うわーーーーーっいい曲だなあ!」という思いを表現する最良の方法は、素直に書くことです。石丸さんの文章は純粋に「音楽を文章で表現」しているわけではありませんが、それでもなお、僕はこの素直さという点で、一番秀逸な文章だったなと思いました。

次に東川さんの文章を見てみます。思うに、東川さん、田中くん、そして村瀬さんの文章は、どこか一部を抜き出して引用してもあまり意味がありません。それというのも、3人は各々の方法で音楽の文章化という問題について正面から取り組んでおり、いわばその文章化の方法自体に彼らの思惑――音楽が文章になったとき、もっとも重要な要素は何だと思うか――が浮き彫りになっているからです。

多くの読者の方は、まだ東川さんが扱った音源をお聴きになっていないかと思います。まずはそちらを聴いてみてください。

https://soundcloud.com/arca1000000/uenqifjr3yua

どうでしょうか。じつはこのArca『&&&&&』という作品、約25分の電子音楽なんですね。室井くんの文章もそうですが、電子音楽を扱った文章は、厳密には「音楽」を扱っているとは言えません。「音楽」はものすごく古典的な言葉です。現代アートを必ずしも「芸術」と呼べないのと同じで、こうした現代の「音」作品を聴く態度は「音楽」の場合とはあまりにも違っています。本当は同じ土俵でベートーヴェンやシューマンと比べることはできないんです。いまここで深入りするのは避けますが、この「音と聴く人の関係史」にはバックミュージックという概念やウォークマン/iPod等の登場が複雑に絡んでいます。

東川さんの文章は、この音作品をいわば映画のバックミュージックのように捉えて、そこでいま流れている映像のほうを描写したようなもの、と言ってもあながち間違いではないでしょう。事実、こうした現代のサウンド作品は、古典的な音楽と比べると、「解釈の多様性」、あるいは、「視覚性」といったものに顕著な歩み寄りが見られます。僕はつねづね「音楽は本来的に舞踊性を擁したものである」と思っているのですが、そうした音楽のエッセンスから乖離していったところに現代のサウンド作品の面白みがあることも多いので、そういった面が本文中で「スマートフォン」や「アイドルのオフショット」といった端的な言葉によく表れていると思います。「音楽を表現する」という点に従順であろうとするならば、唯一惜しかったのは、本文の最後で「これはそんな音楽だ。」と本人が顔を出してしまうところでしょうが、それもまた、このサウンドスケープが反映する現代社会というガラスの破片だと言えるのかもしれません。この音作品と近接した関係にある異次元のサウンドスケープ、すなわち音風景こそが、東川さんにとっての★だったと言えるでしょう。

次に田中くんの文章です。こちらもあまり聴いたことがない方が多いかと思うので、Youtubeの音源を載せておきますね。


おそらく武満徹の『マージナリア』という、本雑誌マージナリアと同名の音楽をすでに知っていた田中くんは、この作品を選ぶことによって、マージナリアという雑誌のタイトルに対しても想像力のリーチをかけたかったのだろうと思います。実際、マージナリアという言葉は日本語ではありませんから、ある程度の効果はあったことでしょう。

マージナリアmarginaliaとは、傍注、すなわち本の余白にある書き込みのことです。その余白性に着目して、田中君の文章はジョン・ケージの実験詩さながらの形式を借りています。彼の文章はその内容よりも形式において音楽を表現しており、そういう技法をあえて選択していることが武満徹の楽曲の表現であることの証だといえるでしょう。時代背景が濃く反映された実験スタイルでもあるので、それを前面に押し出して文章にするのであれば、当時の前衛音楽のどれをとってもよかったんじゃないか、という思いもしないではありませんが笑、文章で表現しやすい音楽をうまく選択したところに、田中くんの飲み込みの早さが表れています。★についての勘所がもっとも鋭かった文章だったとも言えそうです。

次の室井くんの文章は、作曲者による解説といった向きがあります(どうも実際そうらしい)。彼の「音楽」もまた、電子音楽です。

https://soundcloud.com/y_m_u/zicyyjgtcomg

作曲者本人による解説となると、それまでの作品制作の傾向なども調べずに不用意な評を加えることは憚られるのですが、この文章はどこか音作品と平行線を辿っているように感じられます。つまり音作品を赤の他人が表現しているときと異なり、文章は音作品との接点を持たないものの、同じ方向性だけはどこまでも維持している、そんな印象を受けました。この文章の持つ音作品との平行性が、ある意味、室井くんにとっての★であり、そのことをあまり本人は意識していないというところが、かえってこの文章が『いつまでもお元気で』という音作品の純朴な表現であることを暗示しているのでしょう。

最後に村瀬さんの文章を見てみます。ベートーヴェンのヴァイオリンソナタについて書いたこの文章は、おそらく今回の企画中、もっとも音楽の「翻訳」に近いものだったといえます。いわばヴァイオリンソナタについて書いたのではなく、ヴァイオリンソナタを書いた、というわけです。

とはいえ、聴覚に依存する表現を使うことができない以上、それは個々の音の連なりが想起させる視覚的なイメージを書きつづっていくことになります。散文としてではなく、あるイメージを淡々と羅列していくこの文章のスタイルは、音楽の翻訳を書こうとした村瀬さん本人の語り口をできるだけ排除した結果であり、同時に「音楽を表現する」というお題を「音楽を翻訳する」という作業に完全に置き換えてしまったことを示す点で、長所とも短所とも言えるでしょう。

村瀬さんは翻訳者顔負けの職人的徹底をもってして、音楽を言葉に置き換えています。ですが、文章をどう翻訳するかということにしたって、翻訳者の感性がそこに反映されることは避けられません。たとえばアンデルセンの童話を森鴎外の翻訳で読むときは、どうしたって森鴎外の選んだ言葉を読むことになるわけで、アンデルセンを読んでるということには必ずしもなりません。村瀬さんの文章については、そのあたりの線引きをどう決着させるか、というところについて、意図的な踏み込みがあってもよかったのかな、という気がしています。歌舞伎の黒子のように装って、文章の裏から言葉を操っていくのも一興ですが、表現者本人の本音が聞かれないのもまた、表現者の人間らしさが窺われない点で残念だな、と思います。ダンサーである僕からすれば、完璧に振り付けられた踊りのなかにダンサーの個性が垣間見えないようでは、それは誰が踊っても一緒なんじゃないか、というわけです。このあたり東川さんの文章と比較すると、技巧と本音のバランスをとることが非常に困難だとわかります。

なお★について言うならば、村瀬さんはもっとも広範囲にわたって音楽を全体的に表現されています。ですから、良くも悪くも完成度の高い模写といえるでしょう。


以上、長々と思うところを書いてきたわけですが、終わりに《TSUNAMI~》についても附言しておきましょう。この文章が短評の文章と徹底的に異なるのは、実際の音楽を聴いていない評である、という点です。思うに短評の文章はほとんどが聴き手としての立場から書かれたものであり、対する《TSUNAMI~》の評は、譜を読む、という能力を前提としているため、書くことのできる範疇が大いに狭まります。事実、短評の提題者であった大川内くんは素直にその評の限界を認めています。したがって、実はこの《TSUNAMI~》の文章と短評の書き方を比べることによってこそ、「音楽を表現する」という問題の本質がよく見えてくるのではないかな、と思います。

マージナリアの短評は、毎回参加者同士の文章を比較したときにその面白さが際立つ企画です。初期の短評「お~いでてこい」などからすると趣旨にずれはありますが、依然として企画内部の相乗効果が際立っているという点は変わらないかと思います。そこでマージナリアのほかの記事との関連性が見えてくれば、より味わい深く読めるものになるだろうと思い、《TSUNAMI~》との比較という1つの読み解き方をご紹介しました。短評参加者が書いているほかの文章を索引からたどるのも一手ですし、第5号までの短評と併せて読みこむのも面白いかと思います。


今回のブログはこのへんで終わりにしておきましょう。『ゴルダ』の文章において、僕は僕なりにこの「音楽を表現する」という問題を念頭に置いていたので、そのあたりの消息もご紹介したいのですが、この話は来たる7/31(日)の第6号合評会にて披露しようかなと思います。みなさんぜひ顔出してくださいね!^^


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