自宅は劇場から車で20-30分ほどの、比較的閑静な住宅地のなかにあります。通りに面した緑青色の門扉を抜けて、薄汚れた建物を回り込むと、その建物の地下階へと通ずる小さな通路があり、夜になると街灯もないこの狭隘な間道を進んだ奥に、トビリシに来て以来4軒目となる現在の自宅があります。
陽の射し入りにくい部屋なので、割高なこの地域にあっては安く済んでいるものの、絶えて人声のない朝は、不気味というより孤絶に近いものを感じます(別段居心地の悪い家だとかいうことではありません)。ひとたび外へと出れば、街の殷賑を眺めやるだけでも飽きることのない生活ですが、このところは毎朝「そういえば自分はトビリシで踊っているのだった」という一見でたらめな感慨を抱きます。自分がトビリシにいて、なおかつ踊っていることに何らの疑いはないはずなのに、朝な朝なこの異様な気づきをもたらすものは何なのだろう、と想いをめぐらすことも少なくありません。
唐突な話ですが、ベートーヴェンの第九交響曲に譬えるなら、劇場で舞台に立つ生活というのは、ひたすら第四楽章だけを繰り返し上演する生活なのではないか、と思うことがあります。そして上演前にはいつも、もしやこの人生につながる重要な音楽の存在を自分は忘れているのではないか、といぶかしみつつも、上演後には、なにかが完結したという確信を誰よりもはっきりと自覚し、その感覚的真実だけを頼りに暗夜を過ごすのです。
ダンサーはプロもアマチュアもみな、この第四楽章が何物にも代えがたいなにかを補完する営みであることを熟知しています。そして時間が永遠にあろうとも掬いきれない非常に重要ななにかが、ほとんど何も網膜に映じないような一寸の光陰に込められていることをよく知っています。
いま『雨月物語』を読んでいてつくづく感じるのは、人のないところに魑魅魍魎は現れない ―― つまり幽霊の現れる物語というのは、畢竟人と人の対話にほかならず、人間が主人公にならざるをえない、ということです。
また、時を同じくして最近読んだSusan Sontagの随筆に、次のような文言があるのを見て、ダンサーの生活には魑魅魍魎の現れない、というようなことを想いました。ともするとダンサーが表現しているのは、一人称のセリフではなく、無人称の情景描写に近いのではないでしょうか。
―― In my experience, no species of performing artists is as self-critical as a dancer. ...(中略)... each time I've congratulated a friend or acquaintance who is a dancer on a superb performance ―― and I include Baryshnikov ―― I've heard first a disconsolate litany of mistakes that were made: a beat was missed, a foot not pointed in the right way, there was a near slippage in some intricate partnering maneuver. Never mind that perhaps not only I but everyone else failed to observe these mistakes. They were made. The dancer knew. Therefore the performance was not really good. Not good enough. (Susan Sontag "Dancer and the Dance")
閑話はこれくらいにして、そろそろ劇場に行ってきます。