マージナリア第6号独断講評①: 第5号からなにが変わったのか? すみゆうま/ 0 Comments ●マージナリアはなんの雑誌なのか 予告通り、今回はマージナリア第6号の独断講評です(今回がいちばん抽象的な話)。おそらく不定期的に数回にわたって掲載していくことになるかと思います^^ さて、マージナリアはおそらく第1号から最新号までの通読がとても難しい雑誌です笑。上の写真を見ればわかるかと思いますが、まず第1号から第6号までの見た目が劇的に変化していますよね。それはデザインだけの話ではなくて、中身にも言えること。そんな雑誌ですが、1号1号なんとなく良くはなっているよね、というのが読者のみなさんの感想かと思います。 幸か不幸か、第6号はこれまでで僕が一番仕事に携われなかった号でした。それを逆手にとって、マージナリアを見直すチャンスに変えようというのが今回の講評のアイデア。僕は編集長という立場ですが、自省の意味もこめて、マージナリアの良いところ悪いところを全て書きつらねていこうと思います。 さて、マージナリアはどう読めばいいのか。 第6号はおもに「企画」と「自由投稿」の2種類から成っています。企画とは、ある1人の企画者が数人の書き手を集めて、特定のルールに基づいた文章を書いてもらうページのことです。対する自由投稿は、もっぱら1人の書き手が自分の好きな話題について書くページですね。これらの合間に、レビューであったり連載ものが挟まったりしています。 なかでも初めてマージナリアを読む人には、最初に読んでほしい箇所が2つあります。それは、 巻頭言(pp.4-5) 第5号総評(pp.75-78) の2つです。今回は第5号総評から紹介してみたいと思います。というのも、第5号総評に書かれている問題点が第6号あるいはマージナリア一般についても言えるとしたら、それはマージナリアの読み方に大きく影響してくるからです。まず、吉村勇志君の評を見てみます(下線は僕がつけました)。 第5号に限らず思っていることではあるが、自由投稿が個人完結し易い印象がある。確かに、フィードバックや更にそれに対するフィードバックはあるのだが、ある人の自由投稿が別の人に大きく感銘を与え、その人の次の自由投稿を変えてしまうような、動的で双方向、複雑ネットワーク的なダイナミズムにはやや欠けている。・・・これの根本的要因を考えるに、本誌が一号完結であり、複数号に渡る企画が無いからではないかと思われる。・・・自分の論が他人を触発し、その反応が更に自分の思索を深めるような、独力では決して成し遂げられなかったであろう状態への到達という観点から見ると、それには成功していないということである。・・・ マージナリアは「相互に対話を行う」雑誌だと僕は考えていますが、問題は「誰と誰が、どんな対話を、なぜ行うのか」というところで、それは読んで面白いものなのか、ということも検討しなければいけません。では読者にとって面白いような、「相互に対話を行う」雑誌とはどんなものなんでしょうか。 誰と誰が?(who) →①読者と筆者が(読者は、筆者が自分に語りかけているのを感じる) / ②筆者同士が(読者の知的好奇心を満たすような多角的な議論) どんな対話を?(what) →読者の知的好奇心を満たしたり(②)、彼らの考えを見直させる(①)ような対話 なぜ行うのか?(why) →★他人の境遇、立場、視点、意見に触れて、より広いものの見方を身につける雑誌(=マージナリアとはなんの雑誌なのか) まさしくこの★の部分がマージナリアの本質にあたるわけですね。いま吉村君の評を読んでみると、「相互の知見を触発するような最良の方法(how)は試みられていない」ということが述べられているとわかります。 ●第5号と第6号の交差点 もう1人の評者である宮田晃碩君は、彼自身がマージナリアの運営委員長であるという立場上、明確なcriticizeを行ってはいません。むしろ彼はこれをdescribeすることで、どのようなhowが必要とされているのかを明らかにしようとしています(下線は鷲見)。 ・・・「あなたのdiscipline をdefend せよ」という提題は意味が明晰であるように見えるが、提題者自身が「どのようにすればdiscipline をdefendしたことになるのか、それは私にもまだよくわかりません」と吐露している。これは無責任な逃避ではなくて、執筆者への挑戦である。「己の文章の意味を、己の文章それ自体によって示す」ということが求められているのだ。・・・ 言ってみれば、筆者の読解力、そして文章力に雑誌としての良否がかかっている、というわけですね。筆者がなぜその文章を、誰にむけて、どう書くのか、ということを自覚して文章を書かない限り、マージナリアはその目的を達成することができないわけです。なおも現状として、そのような文章が相互に知的なinspirationを喚起できる環境は(少なくとも第5号には)十分に整っていない、ということが言えるでしょう。 この2つの文章から得られる結論は以下の2点だと思います。 この雑誌では、書き手の自分自身に対する高い省察能力が問われている(その意味で読者を感化することが期待されている) マージナリアが相方向的な対話の土壌となるには、書き手のみならず雑誌のシステムにさらなる工夫が必要(少なくとも読者は、そういう雑誌をマージナリアが目指している、ということを知っておくと読みやすい) ここでやっと、巻頭言を覗いてみます。巻頭言の書き手はふたたび宮田君です。 この冊子を作るにあたっては、企画を提案し、検討し、形を整えるという準備段階がありました。その後に「原稿募集要項」を公表し、主に知り合いの繋がりで寄稿者を募集します。・・・それから集まってきた原稿を編集し、さらにはそれに対するフィードバックをも書いてもらい(私も書いています)、校正など必要な過程を経て入稿に至るわけです。・・・私は、この過程をこそ読んでいただきたいと思うのです。この冊子には多くの対話が収められています。対話には時間がかかります。人間の対話であるかぎり、問いと答えが一挙に提示されることはありえません。「どう答えるか」ということがそれぞれの肩に懸っているのです。そして実際、私たちの言葉はどれも、何かへの答えとして発されるはずです。・・・ 彼は、この巻頭言が第5号からさらに月日を経た、次なる対話の一部分であることを自覚しています。ですが、具体的に第5号と第6号の違いを明言するには至っていない。というのも、これは単なる推測ですが、「巻頭言」である以上、なにかの評ではなく、イントロダクションを書かなければいけないと思ったのではないでしょうか。あくまで包括的な視点から、どの原稿に対しても間違いなく言えるようなことが書かれたのです。なにも間違ってはいません。 とはいえ、僕はここにマージナリアの一番の問題が眠っているように思います。半年に1回だけ出版されている紙媒体である以上、前号への言及は危険だ。かと言って次号について憶測をめぐらすには早すぎる。しかし当該号だけについて言えることが少ない。・・・かくしてマージナリアは毎号毎号、対話の一部分であり続けながら、一方でその号だけを取り出したとき、1つの重要な対話の全貌を形作ることができていないのだと思います。それというのも、各企画や自由投稿が1つの号のなかで閉ざされた対話として完結しているからであり、それがゆえに、雑誌としての継続性が「マージナリア」という題名のみによってしか保証されていないからです。本来ならば、「第5号総評」と「第6号巻頭言」のあいだにこそ、両者をつなぐ懸け橋が渡されているべきなのに、ここに大いなる隔絶が存している、それも第6号のなかに同時掲載されることによって断絶されている、というのは多分に皮肉です。 第7号ではたとえば、こんなことをやってみても面白いかと思います。巻頭言として「第6号総評」を載せ、巻末言として「第8号イントロ」を載せてみる。終わりはつねに始まりであり、始まりはつねに終わりである、ってな調子ですね。そんな形式を作ったうえで、両者ともが第7号の中身についてさまざまな評言を含みうるのであれば、第7号はマージナリアの金字塔になるかもしれません。 これはいわば装丁本の小口(こぐち)についてのお話。第5号の良さ悪さが第6号の各企画ではどう反映されているのか、という中身の話については次回のお楽しみとしましょう。第6号のなかでは、実際、相互のinspireに部分的に成功しているページが少なからず散見されるので、そういった企画や文章の面白さについてもまた次回以降見ていきたいと思います。今後は各ページについての言及が増えるかと思うので、ぜひお手元にマージナリア第6号を1冊用意しておいてくださいね~! ▶マージナリア第6号の購入はこちらから! You may also like Profile すみゆうま 東京藝大中退。オランダ国立バレエ学校を卒業後、グルジア国立バレエ団に入団。