マージナリア第6号独断講評②: 関西人の感想がモットモ至極だったテーマ論説「恋愛」

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おととい、今シーズン最後の『白鳥の湖』が終わりました。今回も1日だけロットバルトに挑戦する機会をいただいたので、下手なりにベストを尽くしたつもりです。なんといってもスターウォーズ好きにはたまらないダークサイドの化身ですからね~笑。ファジェーチェフ版『白鳥の湖』ではロットバルトもなかなか踊らせてもらえるので、色々と勉強になりました。

バレエ団では翌日から、来週のプレミア作品『La Strada』にむけてのリハーサルが始まっています。『La Strada』は巨匠フェデリコ・フェリーニの同名映画をもとにしたバレエで、今回のバージョンは世界初演。まだ制作の途上なので全体像は見えていませんが、オペラとの共同制作でもある来週の公演は、きっと今シーズンでもっとも興味深いプログラムになるのではないだろうかと期待しています。

*  *  *

さて、前回のブログではマージナリア第6号の問題点などを自己反省的に挙げつらねましたが、今回は「テーマ論説」を読んでみたいと思います。

第6号のテーマはずばり「恋愛」でした。マージナリアにかつて一度も見られなかった要素の1つです笑。

マージナリアが恋愛を扱ってこなかった理由は簡単です。もともとのメンバーが男子校出身で需要も供給もなかった笑というのと、「そもそも書いて論じるようなことじゃないよなー」というのが一般認識だからです。

それでもテーマを設定した沖田さんは「恋愛を語ってくれ」と叫びます。


  • そんなわけで、僕が期待するのは、恋愛経験主義者たちをまとめて串刺しにし、返す刀で恋愛解体論者たちの不毛な議論もバッサリ切り捨て、なおかつ僕の目の前の中学生カップルに「つまらない」と投げ捨てられもしないような文章だ。シンプルにしよう。体験・分析・社会のどれか1 つに偏らないでほしい。幻想を構築しながら解体し、解体しながら現実社会に触れ、社会を分析しつつ恋愛の固有性、一回性を捨てないで欲しい。

経験主義もなんも、恋愛しないで恋愛なんて語れるのかよ、という困惑を片手に、まじめぶって文章を書くか開き直ってしまおうか、ついつい考え込んでしまう、そんな企画。一言で言うなら、「なんてこったい」というページです。

そういうわけで僕は、みなさんがどういった面構えで文章を書くのかな、というのが気になっていました。もっとたくさんの方に書いてほしかったなあ、というのが正直な感想ですが、みなさんの書く姿勢、そこにどうしても恋愛経験値のようなものが反映されてしまうあたり、誰が読んでも面白いに違いありません。それはちょうど宮田佳歩さんが書いているように、恋バナをしたがる人のサガなのだろうと思います。
筆者それぞれの面構えを見てみましょう。まずは板尾さん。

  • 恋に焦がれて何も手につかなくなっては仕方がない。かといって恋をしてしまった以上、それ以前に戻ることはできない。とすれば、恋に焦がれたまま万事に手を付け、恋を肯定して生きていかねばならない。かくして、盲目的な恋は「その人のために全てを捧げて生きる」という、人生の究極的な動機付けとなり、そのような恋をすることは、その中での活動を通じて直接的・間接的に人生の喜びを得るための方法の一つになるだろう。

この文章を読んだルームメイトのK君は、「年配の人が書いてるみたいやん」との感想を漏らしてくれました。なるほどたしかに、恋愛を語る上では、それを過去の記憶の延長線上に書くのか、いま起きていることとして書くのか、未来に起こることとして夢見心地で書くのかで、書き手の見え方が変わってきそうです。話が個人の経験から離れれば離れるほど時間軸においても遠い話のように感じるのが、恋愛を読むうえで面白いところです。逆にいえば、いま起きていることを語ろうとすれば、それは一般化して話すことが難しい、というわけですね。
そんなわけで、この文章はずばり愛とか幸福という概念に対して敬虔的なあまり、沖田さんの目の前の中学生カップルに「つまらない」と投げ捨てられはしないか、というのが僕の懸念です。その純直な論調は恋愛できる時間の只中にいることの裏っ返しだとも思うんですが、文体の仮面を脱ぎ棄てて、終わる恋についても書いてほしいな、と思います。詩人の茨木のり子さんだったか、「恋と愛とは似て非なるものです」というようなことを書かれていたと記憶していますが、「幸せと幸福」などについても同じようなことが言えるはずです。板尾さんには素直に知っているだけのことを書き出してほしいな、と感じました。それが沖田さんの言う、「体験・分析・社会のどれか1 つに偏らない」文章に繋がるんじゃないかと思います。

次は鍵谷君の文章。アイドル好きが昂じて研究の対象になってるんじゃないか、と思わせてしまう、その真剣さに人間味を感じます。

  • 以上のように考えてみると、「ガチ恋」の身振りはいうなれば19 世紀のパリでバレエダンサーを見つめる視線、あるいは江戸時代の絵島生島事件での大奥の女性の姿を想起させる。しかしそれらとの決定的断絶は、そういった恋愛至上主義の「民主化」にともなって、恋という名のもとに「繋がる」ことの可能性が開かれたということだ。つまり、「ガチ恋」のあり方自体は、芸能がメディア化される以前には存在しなかったと言っても良い。メディアのもとでイメージ化された身体性と、そこからこぼれおちるアイドルのリアルな生との差異が、「ガチ恋」を発生させ、そうした介在の道を開くことになったのである。

この真面目な「ガチ恋」考察を、僕は個人的に面白く読ませてもらいました。体裁をしっかり整えた文体で「ガチ恋」について調べてしまう筆者の面構えは、どこか本人のアイドル好きを肯定するために意図的に仕組まれたかのように見えるところがあり、そこに僕は筆者の男子校出身者らしいユーモアを感じます笑。もっとも筆者の個人的な本音が見えてこない、という欠点は補いきれておらず、その点で独り語りの印象は否めませんが、頑なな文体の仮面の代わりに、徹底的な観察者という仮面をつけてわが身の辿ってきた足跡を消し去るだけの冷静さが見え隠れしていると言えるでしょう。

最後に宮田佳歩さんの文章を見てみましょう。


  • 女子会の主題に「恋バナ」というのがある。非生産的で不毛な会話だと思うが、面白いのは否めない。いや正直に言うと、私は恋バナが大好きだ。浮気の報復に彼氏の家の浴槽を増えるワカメでいっぱいにしたとか、教育実習生との個人的関係を持つことは禁止されていた女子中学生が卒業後に告白して付き合うとか、「可愛いなんて言われたことないです……」と照れる後輩に「これからは俺が毎日言ってやるよ」なんていう恥ずかし過ぎて聞くに堪えないセリフを発した同級生の話とか、どこまでが真実なのか怪しいけれどもキャーキャー騒ぎながら聞いているのはとても楽しい。

もしもここまでの3人の文章に勝敗をつけるとしたら、この書き出しに始まる宮田さんの文章が圧倒的な優位に立ってしまうのは避けがたい事実でしょう笑。何といっても女性の恋バナの前には、どんな論理も観察眼も歯が立ちません^^;
さらにそこから続く文学上の恋バナも説得力があります。文学のなかでの恋愛、そして恋愛をどう書くかという文壇上の議論を踏まえたこの文章は、おそらく中学生カップルたちも耳を傾ける恋愛の側面を上手く捉えているように思いました。「面白いのは否めない」という冒頭の一言が、おそらく恋愛を語るということのもっとも本質的な一面を表現しているのではないでしょうか。


このように、3者3様の語り口は読んでいて面白いものです。ですが、マージナリアとしては3者3様の恋バナを聞き出したかったような気もします。結局、恋愛を語る彼らの面構えは、彼らと恋愛との距離感を読者にさらけ出すだけのもの。その距離感も一つの恋愛事情を物語るものではありますが、ヤイ男ども、かっこつけてないで本音はどうなんだい、というのが僕の感想なのでした笑。

そんなわけで「各テーマのもつcontextの広がりを解きほぐす」というテーマ論説としての到達点はやや霞んだ感がありますが、「恋愛」というこの巨大なテーマの前にはどんな批評の鉄槌を下したってきっと意味はないでしょう。「面白いのは否めない」のですから。グルジアの恋愛事情についてもいつか書いてみようかな笑




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