ポリグロット:みんなちがって、みんないい

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 【警告】ブログまじめ回です(笑)


 みなさんはポリグロットという言葉を聞いたことがありますか?

 簡単に言うと、ポリグロット(polyglot)とは複数の言語を操れる人々のことです。つまり、バイリンガルやトリリンガルの人々のことです。
 2年前、僕はマージナリアに「Against translation」という英文の記事を書いたことがあります。いろんな概念や用語を使いすぎたせいでかなり難解な文章になってしまい、周囲の反応もあったりなかったり、という感じだったんですが、これはまさしくポリグロットについて書いた文章でした。

 ちょうどアムステルダムに住んで2年目の頃だったと思いますが、僕は「ようやく英語も自然体でしゃべれるようになってきたな~」という自覚を持ち始めていました。それがやぶから棒な話ですが、ある日、友人となんともない会話を英語でしているときに、英語でも日本語でも表現できない異様な感覚にぶつかった気がしたんです^^;
 自分がいまテーブルを介して友達としゃべっていることは明白だし、日本語でも英語でもそんなことは表現できる。だがいったいいまの感覚はなんだったんだろう、どちらの言語も僕の脳裡から消えてしまっていたような気がする。僕はもしかすると、2つの言語の狭間にいたんじゃないか――? 変な言い方をすれば、その一瞬、幽体離脱したみたいなふうにモノが見えたんです。ちゃんと見えているんだけど、自分が見ているような気がしない、という感じでした。

 それがなんでバイリンガルと関係あるのか、というと、僕は
「今まで見ていた世界は日本語しか使っていなかった僕が見ていた世界でしかなくて、違う言語を異文化の中で使う人には、たとえそれが同一人物だったとしても、当然ものごとは違ったふうに見えるんじゃないか?」
という感じに考えを進めてみたんです。ああそれなら、「自分のなかのもう一人の自分」という仮説を立ててなにか書いてみようと思い立った結果が、「Against translation」という文章です。
 せっかくなので、なにを書いていたのか引用してみます。長いので読み飛ばしてもらっても構いません。


  • Knowledge hardly helps our intuitive cognition of language; we could not easily become Olympic athletes just by understanding some scientific theories on the possibilities of our body, how to train ourselves and so on. It seems to me rather reasonable to say, from the point of view of Yogācāra, that the idea of dividing language from thought might be a delusion, perhaps caused by the function of words inventing meaning, and that they could be fundamentally identical in ontology: until the moment I felt as if my words were gone, my thought should have been Japanese, that is, Japanese should have been my thought. What happened to me must have been something trivial if I had placed myself into the depths of my consciousness. Simply because my thought, which I thought I could render in English, was actually Japanese, a serious contradiction arose between the two languages: there was no way to keep my thought from the crucible of self-denial. And yet this contradiction was unavoidable. To solve this situation I need to have another thought instead of Japanese, which used to be my thought. Thus I have to be two, or my body, the mouth of which is sealed, has nothing to do but stare at the unearthly emptiness surrounding me, about to tear me into two bloody pieces of flesh.
  • (訳) 知識が言語に対するわたしたちの直感的な認識を助けることはほとんどありません。わたしたちの肉体が秘める可能性や、どうやってトレーニングをすべきかということについて書かれた科学的な理論を理解したところで、簡単にオリンピック選手になれるかといえばそうではないでしょう。わたしはむしろ、唯識論の観点から、こう言いたくなります。思考を言語と区別するという考え方は、きっと意味を創り出す言葉の機能によってもたらされた幻想であり、存在論的にはどちらも同じものであるのかもしれない、と。すなわち、自分の言葉が消え去ってしまったと感じたそのときまで、わたしの思考は日本語そのもの、つまり、日本語がわたしの思考だったはずなのです。あの瞬間、私に起きたことは、もしもわたしが自分自身の意識の奥深くにまで通底していたなら、なんでもないことだったに違いありません。ただ単に、英語にも置き換えることができるだろうと思っていたわたしの思考が、実際には日本語そのものだったからこそ、2つの言語のあいだで深刻な矛盾が生じたのです。自己否定のるつぼに陥らざるをえない、と私が思ったのも無理はありません。しかもこの矛盾は不可避だったのです。この状況を打開するためにも、わたしは、わたしの思考そのものであった日本語のほかに、もう1つの思考を手に入れる必要がありました。それゆえ、わたしは2人でなければなりません。さもなくば、口を封じられたわたしの肉体は、おどろおどろしい周囲の空虚が、いまにもわたしを2つの血みどろな肉片に切り裂こうとするのを、ただ眺めるほかないのです。


まあなんともキザな文章ですが、要するに、「日本語を使うわたし」と「英語を使うわたし」は別人なんじゃないか、と言ってるんですね。最近読んだBBCの記事によると、バイリンガルの人々はしばしば彼らの話す言語に応じて異なるふるまい方をする、ということが、事実いくつもの研究によって確認されているようです。


 このあと、僕の文章はとんでもない方向にまで触手を伸ばしていきます(笑)。筆写された口語の歴史、ツイッターの実験、言語多様性をめぐる翻訳の可能性・・・まあところどころで無理が生じてますが、サルトルの有名な「言語脱落」を出発点に定めた当時の僕は、another us(もう1つのわたしたち)という存在にスポットライトを当て、この透明人間のような何者かをわれわれ自身の母語の対極に据えることで、この相対化の枠組みが自己修養の方法として有用であることを示したかったのかなと思います。最終的には、肉体(=わたしたちにとってただ1つしかないもの)を言葉=思考(=わたしたちのなかにいる、複数のわたしたち)から峻別しないと、本当の意味での自分の言葉は得られないよ、みたいなことにまで触れたように思います。(自信をもって要訳できません笑)

 この手法がマージナリア第4号では、時間と場所にまで応用されていくわけですが・・・それはともかく。

 ポリグロットというのは、なにも特殊な才能をもった人々のことではありません。さまざまな言語に囲まれた環境で何年も過ごせば、程度差こそあれ、誰でも複数の言語を理解できるようにはなります。ただおそらく、生まれてからずっと2ヶ国語・3ヶ国語に囲まれてきた人たちは、本当の意味でポリグロットではないのではないでしょうか。彼らは自分のまわりにあった言葉を異なる環境、異なる人々のあいだで使われるものだとは意識せずに使ってきたわけで、いわばそれら数ヶ国語を全部ひっくるめて1つの言語のように使っています。もしもスペイン語を知っていれば、そこからさらにフランス語を習うのは簡単でしょうし、概して次のステップに進むのは楽でしょうが、きっとある時点でそれぞれの言語を明確に使い分ける必要に迫られます。たとえばスペイン語のつぎにロシア語を勉強しようものなら、もともと1ヶ国語しか話せない人々同様、さまざまな苦労を経験することになるでしょう。
 このように、人それぞれ段階は異なりますが、ポリグロットになると結局、各言語を厳しく使い分けざるをえなくなります。彼らはある段階において、自分の知っていた言語を新たな言語に照応させるプロセスを踏み、母国語をも1つの客観的な言語として置き換えていくことになります。自分にとって当然だったものを一度解体し、いわば再構築していくわけですから、これは結局、自分史を整理していくことにもなるんです(この話は個人的にマージナリア特別号掲載予定の文章にもつながっています^^)。

 さきほど掲げたBBCの記事は、異なる言語が異なる記憶を呼び起こす、ということも指摘しています。たとえば、
 「なにやってんだ!!」
という言葉は僕にとって、中高時代の先生を思い出させ、
 "What are you doing??"
という言葉はポルトガル・オランダ時代の先生らを思い出させるわけですね(笑)。当然のことだと思います。その意味で、わたしたちが言語ごとに「異なる自分」を形成しているとしても、それはなんら怪訝なことではありません。
 ただ、そういったことも踏まえた上で、わたしはわたし、1人だということを思い出してほしいと思います。英語のときはaggressiveに話す傾向があって、日本語のときはshyに話しがちだとしても、じゃあ英語のほうが得意だからaggressiveな自分がわたしなんだ、ということには絶対になりません。日本人の習慣に合わせて敬語で話すのは面倒だから、おれは英語流でいくぞ、だとかさまざまに考える人がいるとは思いますが、悶々としたときはぜひ鏡を覗きこんでみてください。鏡に映るのはあなただけです。あなたのなかに何人のあなたがいようとも、いま、そこにいるのはあなた1人だけだということを忘れないでほしいと思います。正直に、真摯に生きるのが一番の得策です。




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